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伊藤大輔監督『反逆児』(東映時代劇)

 『反逆児』(はんぎゃくじ)は、1961年11月8日公開の日本映画である。(東映時代劇YouTubeで、今年(2023年)2月17日~24日に限定公開された。)1963年には『家康無情』としてテレビドラマ化され、翌1964年には、『反逆児』のタイトルで舞台化もされた。

 大佛次郎の新作歌舞伎(戯曲)『築山殿始末』(1953年に歌舞伎座で初上演。三郎信康は市川團十郎)を伊藤大輔の脚本・監督で映画化した時代劇である。
 『築山殿始末』の主役は、築山御前である。伊藤監督は、徳川家康(尾上松緑)を主役(築山殿は山田五十鈴、三郎信康は高橋貞二)に変えた映画化の企画を松竹に持ち込むが却下され、東映では、三郎信康(中村錦之助)を主役にするという条件で映画化が実現した。
 なお、『築山殿始末』は、1966年にテレビドラマ化された時の配役は、没企画となった築山殿(山田五十鈴)、徳川家康(尾上松緑)で、三郎信康は、『築山殿始末』で三郎信康を演じ、前年に亡くなった11代目市川團十郎(1909-1965)の遺子・市川新之助が演じた。

  7代目松本幸四郎┬長男:11代目市川團十郎─市川新之助
           ├次男:8代目松本幸四郎(初代松本白鸚)
           └三男:2代目尾上松緑

ストーリー

 天正7年(1579年)、徳川家康(佐野周二)へ加勢のため、軍を進める織田信長(月形龍之介)は、羽柴英吉(原健策)に「新戦法を思いついた」と言った。羽柴英吉は「教えて下され」とねばるが、織田信長はもったいぶって教えない。織田軍が戦場に着くと、既に徳川軍と武田軍の戦いが始まっており、そこで織田信長が見たのは、
───徳川家康の長男・三郎信康(中村錦之助)による鉄砲の三段撃ち
それは織田信長が思いついたばかりの新戦法であった。
 武田との戦で勝利を収め、岡崎城に凱旋し、祝宴が設けられた。その席で、三郎信康は見事な風流踊りを披露した。織田信長は思った。
───このまま三郎信康が成長したら、織田家を乗っ取られる。
 その三郎信康といえば、今川義元の姪である母・築山御前(杉村春子)と織田信長の長女である妻・徳姫(岩崎加根子)との板挟みに苦悩していた。そして、その憂さ晴らしに城外に出た三郎信康は、日向時昌の娘ではなく、花売り娘・しの(桜町弘子)に出会い、気晴らしにHしてしまう。

 武田の大軍を迎えて鮮かに勝利を収めた家康の一子三郎信康は、一躍織田陣営に名をあげ、岡崎の城に凱旋したが、次女を生んだ妻徳姫は気位高く信康が産室を見舞うことを許さなかった。今川義元の血をつぐ築山御前を母に持ち、九歳で信長の娘徳姫を娶った信康は戦国時代とはいえ、血の相剋に生きる運命児だったのだ。父母は身の立場から浜松と岡崎に居城を別にしている有様、築山御前の冷い仕打に妻としての態度も忘れかけた徳姫との溝が深まって行くのも仕方がなかった。苦悶の続くある日、信康は野で菊を摘む花売のしのに一度だけの愛を与えたが、築山御前と情を通じる鍼医減敬の配下亀弥太に目撃されていた。妻には心の隔りを感じる信康にも服部半蔵、天方、久米ら忠誠の部下があった。信康だけを愛する母築山御前は、怨敵信長を討ちとるようにと老巫女梓を供に持仏堂に籠り、信長・徳姫父子の呪殺を祈願していたが、亀弥太の情報から一計を思いつき、しのに今川家を建てる男子を孕ますべく侍女小笹と名を変えさせて信康の身辺に置いた。母の企みに気ずいた信康にもまして徳姫の打撃は大きかった。築山御前の謀略は意外に大きく減敬らを使い、武田方に織田徳川の情報を売ろうとしていたことも明らかになった。「母上が信康の母でさえなければ斬り、父上が信康の父でなければ討ちます。生きるに生きられぬ思いはこの信康……」と絶句、障子の蔭で立ち聞くしのと梓を一刀で仕とめた。徳姫は十二カ条の訴状を父信長に屈けた。夫婦の誤解もとけてひしと抱きあう二人だったが時は遅く、かねてから信康の抬頭を快く思っていなかった信長は、秀吉の入智恵をもって訴状をたてに、信康と築山御前の断罪始末を家康に命じてきたのだった。家を護るために妻と子を死路に追いやらねばならない家康にもまして、信康の胸中は複雑だった。母は既に浜松に護送され信康の死場所も二俣城に決った。介錯は事もあろうに服部、天方、久米。三者三様の慟哭のうちに信康最期の時が訪れた。時に天正七年九月、そして信長が本能寺の変に斃れたのは、信康自刃の二年八カ月後の事であった。

http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=20501

【要約】 松平信康は、武勇も、人格も優れていた。このため、織田信長が「このまま成長したらまずい」と思っていた時、羽柴秀吉の入れ知恵で、徳川家康に殺させることにした。松平信康は、「武田には通じていない(反逆児ではない)」と訴えて切腹した。「本能寺の変」で織田信長が死ぬ2年8ヶ月前の話である。(徳川家康があと2年8ヶ月耐えていたらと思うと残念である。)


 冒頭から「鉄砲の三段撃ちは三郎信康が考えた」「三郎信康は風流踊りが大好きで、岡崎で流行させた」とする史実(伝承)や、「三郎信康は下手な踊り手を射殺した」とする「徳姫の12ヶ条の訴状」の条文を、新解釈で取り入れるという手法で、感心した。(この手法は伊藤監督のアイディアなのか、大佛次郎のアイディアなのか、『築山殿始末』を見ていないので分からない。)
 特に感心したのは2点。
 1つは、「徳姫の12ヶ条の訴状」の条文の「築山殿は鍼医者・減敬(河野秋武)と密通し、武田に内通している」「三郎信康は僧を馬で曳き殺した」(『どうする家康』では「斬り殺した」に変更された)を、『反逆児』では、「その僧は減敬で、三郎信康は、母に武田との内通をやめさせるため、母に減敬の死を見せようと、母の居場所まで馬で曳いていった」と描いた。
 もう1つは「網舟」。古文書に「築山殿は網舟で浜松に運ばれた」とあるものの、「網舟」の意味が分からなかったが、『反逆児』では、築山殿を輿に乗せたまま舟に乗せ、その上から網をかけていた。「輿を舟に縛り付けて固定するため?」いや違う、「護送」であろう。唐丸籠の舟バージョン。浜松の伝承では、築山殿を唐丸籠に入れ、浜松城近くの幽閉地に運ぶと、築山殿が「名残惜しい」と言ったので「名残」という地名になったというが、唐丸籠の使用は江戸時代の話であるし、「名残」は「名栗」の転訛であろう。『反逆児』では、築山殿を輿に乗せたまま、外から複数人で槍を突き刺して殺していた。
 築山殿は「女ではあるが、武士の娘。言ってくれれば自害したものを。口惜し」と言って怨霊になり、徳川家康は何日も寝込んでいたという。可睡斎の等膳和尚を呼んでご祈祷をしてもらった結果、無事、怨霊は退散した。築山殿の幽霊を徳川家康が見たかどうかは分からないが、徳川家康がノイローゼなのか、熱中症なのか、「御煩(おわずらい)」で寝込んでいたことは史実のようである。松平家忠の『家忠日記』によれば、松平家忠は、牧野城(諏訪原城)の城番に指名され、打ち合わせのため、決められた通りの9月2日(この年の8月は30日までなので、築山殿が殺害された8月29日の3日後)に浜松城へ行くと、徳川家康は「御煩」(御病気)で登城しておらず、代わりに松平家宗と休庵が現れたとある。(普通の人なら49日間は喪に服していたいでしょうが、徳川家康には武田との戦いが待っていました。まぁ、じっとしているより、戦っている方が、気が紛れていいかもね。)

二日乙巳 為牧野番、日通に、濱松迄越候。家康御煩にて、城へはいで候はず候。われわれ所へ、松平玄蕃、休庵被越候。

松平家忠『家忠日記』「天正7年9月2日条」

きりゅうさんの解説は、どれも楽しい。見習いたい。

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