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於大の方(徳川家康の実母)の生涯

★この記事には、今後の『どうする家康』のネタばれが含まれています。

『どうする家康』のストーリーは分かりやすいが、分かりやすくするためなのか、時系列が歪められている。たとえば、鳥居忠吉が貯めていた武器や金を見せたのは、竹千代が、父の法要で岡崎に戻ってきた時の話しである。
 また、史実と異なることも・・・。「清須同盟」に至る経緯は、『どうする家康』の流れは、
①松平軍単独で刈谷城の織田方・水野信元を攻めたが負けた。
②吉良義諦(義昭)との連合軍で刈谷城の水野信元を攻めたが負けた。
③主君・今川氏真は兵を送ってこない。
④主君・今川氏真と同盟を結ぶ武田信玄に加勢を求めるが拒否された。
⑤於大が岡崎城に来て「今川氏真と手を切って織田信長と対等な同盟を結べ。その気になったら吉良義諦(義昭)を襲え」と言った。
⑥領地の巡視に行くと、領民がいきいきと働いていた。これは、松平元康が今川氏真と手を切ったと聞いたからで、その噂を流したのは酒井忠次であった。
⑦是非もなく、松平元康は、水野信元と共に東条城の吉良義諦(義昭)を攻めた。
以上、実に分かりやすいが、史実ではない。

①「桶狭間の戦い」の時の刈谷城主は水野信近である。鳴海城代・岡部元信は、『どうする家康』では捨てられた今川義元の首と交換に鳴海城を開城し、駿府への帰途、刈谷城に寄り、忍者に命じて刈谷城を焼き、水野信近を討ち取っている。刈谷城は、再建途中の犬小屋のようだった?
②実際に戦ったのは、刈谷城ではなく、刈谷城から葯2km(18町)離れた畷である。
③今川氏は、北条氏(今川氏真の正室の家)の救援で手一杯だった。
④脚本家の創作
⑤以下の引用文参照

 竹千代──家康が十八歳の時、今川義元は上洛の軍勢を起こした。ところが、義元は織田信長の奇襲にあい、桶狭間の合戦で討たれてしまう。この時、家康は長い人質生活から解放されて、岡崎城を奪還する。
 じつは、桶狭間の合戦の二日前に、於大は十六年ぶりに家康と再会している。
 人質という厳しい環境にありながら、雄々しく成長したわが子を眼のあたりにみて、於大は感涙にむせんだという。その二日後、義元が死に、家康は義元の弔い合戦に名を借りて松平の旧領の回復のために織田軍とたたかい岡崎城に入城したのである。
 その時、於大は、家康に提言している。
 それは、「織田軍と和睦して、同盟を結びなさい」というものであった。
 母の進言に従って、家康は、翌年、清洲に出むいて、織田信長との間に同盟を結ぶ。於大は、先見性を持つすぐれた女性だった。

名古屋テレビ編『歴史ウォッチング』「偉大な母・於大」

⑥当時の家臣ツートップは、石川数正と酒井忠次ではなく、石川家成と酒井忠次であった。(徳川家康生誕時の家臣ツートップは、石川清兼と酒井正親であった。石川家も酒井家も最古参の松平郷譜代(岩津譜代)である。)
⑦「三河一向一揆」の時、松平昌久は松平元康に背き、東条城に入った。松平昌久は大樹寺攻めで恥をかかされ、吉良義諦は加勢してあげたのに、東条城を攻められたので松平元康に対抗したというのが『どうする家康』の流れであろう。
・永祿4年4月:今川氏真、東条城将・吉良義安の、松平元康の外戚なるに依り、之を駿河藪田村に移し、義安の弟である西尾城将・吉良義諦をして、東条城を守らしめ、牛久保城将・牧野成定をして、西尾城を守らしむ。
・永祿4年9月13日:松平元康の部将・本多広孝、吉良義諦を東条城に攻めて、之を降す。元康、義諦を岡崎に移し、鳥井元忠、松平信一をして、東条城を守らしむ。


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