見出し画像

津島神社と豊臣秀吉

画像1


 津島神社と聞くと、織田信長を思い出す。織田信長は、人々を驚かすために建物を朱塗りにし、御神紋に「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」(織田信長の氏神社・劔神社(織田明神)の御神紋)の使用を許可したという。(朱塗りにしたのは、疱瘡神は赤が嫌いだからであろう。)

 織田信長の印象が強いが、津島神社の楼門は豊臣秀吉の寄進だし、上の写真の(案内板が高すぎて誰も読まない気がする)南門は豊臣秀頼の寄進である。

画像2


 墨俣城で金製品の盗難事件がおき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が疑われた。

 ──さて、木下藤吉郎はどうやって真犯人を捕まえたでしょうか?

 木下藤吉郎は、「売って銭に換えるに違いない」と考え、津島神社の社家・堀田氏に連絡し、質屋に手を回してもらい、津島神社で事件解決を祈願した。すると質屋に売りにきた真犯人が逮捕されたので、木下藤吉郎は「津島神のおかげ」として、津島神社にお礼参りをしたという。

  堀田正道─正定(道悦)┬正高(道空)盛重【豊臣家馬廻】
               ├正則 (三郎右衛門)
               ├正遠 (総右衛門)
               ├正元 (太郎五郎)
               ├正秀(法山)正吉【徳川家旗本】
               ├某  (権阿弥)
               ├長正 (長政。図書頭)
               ├女子 (堀田右馬允某妻)
               ├女子 (平野右京進長治妻)
               ├女子 (真野左近某妻)
               ├女子 (堀田将監某妻)
               ├女子 (堀田新太郎某妻)
               └女子 (堀田内蔵助某妻)

※津島七党筆頭の堀田氏が、同じ津島七党の平野氏や真野氏と婚姻関係を結ぶのは理解できるが、6人の娘のうち4人を分家の堀田氏と結婚させるって・・・血が濃すぎない? 生物学的にどうかと思う。
 堀田右馬允、堀田将監、堀田新太郎、堀田内蔵助、そして、この記事に出てくる堀田板東大夫と堀田弥右衛門尉の系図上の位置づけは?

堀田板東大夫:堀田一族で津島神社の神官。伝承によると、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、堀田板東大夫の屋敷に奉公していたといい、木下藤吉郎がよく木登りをしたという「太閤松」が残されていたが、「安政の大地震」(1855年)で倒れたという。
堀田家住宅(津島市南門前町)
https://www.city.tsushima.lg.jp/shokai/bunka/bunkazai/jyuuryoubunnkazai.html

■木下藤吉、冤罪をのがれし報謝のため牛頭天王へ参詣の図
 永禄6年の秋の末、信長公、「西美濃に至らん」とて、道すがら墨俣(すのまた)に陣を取り給ふに、その夜、福富(ふくずみ)平左衛門尉が金龍の面指(おもざし)紛失せしかば、「誰彼このあたりへ近付きし」など評議の内、藤吉殿を指さぬばかりに見えければ、秀吉公大いに怒り給ひ、「その盗人を捕らへて冤誣をはらさんにはしかじ」とて、急ぎ津島へ馳せ行き、堀田弥右衛門尉と云ふ豪家へ立ち寄り、しかじかと語り給ふに、果たして、くだんの面指を「質に置かん」とて、この家に来るを、難なく捕らへ、喜悦の余り、「これ、偏へに牛頭天王の加護ならん」と、それより直に天王の御宝前に詣で、拝礼し、やがて盗人をば津島の雑色に引かせ、西美濃御本陣に参り給ひけるとぞ。


 墨俣城では、2002年に時価800万円相当の純金の鯱が盗まれ、再制作されたが、2006年には腹びれなどがもぎ取られ、2017年には盗難未遂事件が起きている。豊臣秀吉なら、どう解決する?

★「一夜城」の純金しゃちほこ、あわや盗難 過去にも被害
https://www.asahi.com/articles/ASK4F535QK4FOHGB00S.html

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。