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第22回「設楽原の戦い」(動画集)

■時代考証担当・小和田哲男先生(毎週日曜の放送終了後)

■歴史学者・呉座勇一先生(毎週日曜の放送終了後)

■濱田浩一郎先生のYouTube歴史塾(毎週日曜の放送終了後)

■戦国BANASHI(毎週月曜)

■高橋学長のむさしのチャンネル(毎週月曜)

※20話「岡崎クーデター」コメント
長谷川良行
「お疲れ様です。 「岡崎ク一デタ一未遂事件」が正しいですよね。 この事件と「信康・築山事件」は一体であると思いますね。 信康の父で瀬名ちゃんの夫・松平元康と後の天下人・家康は別人だから起きた事件だと思いますね。 つまり故人の元康の妻子や家臣たちが、元康にすり替わり、家康と改名した人物へのク一デタ一計画️!!  武田の力を利用しようとした。 江戸時代、幕府の頭の悪い御用学者どもは元康と後の天下人・家康は別人であることを隠蔽するのに躍起で「信康・築山事件」の諸悪の根源を「残忍な信長」にするとは、なかなか考えましたな。 本来、信長なんて関係ないのにね。 「徳姫十二ヶ条」なんて捏造ですよ。 岡崎の松平と浜松のニセ元康 (家康)の争いだと思います。 今後が楽しみです」
高橋学長「なるほど、なるほど。世良田二郎三郎であると考えれば、ここはすんなり腑に落ちますね。どうもありがとうございます」
長谷川良行「返信有難うございます。 私も行ったことがありますが、群馬県の東武伊勢崎線に世良田という駅があります。 あそこには東照宮や資料館、徳川や新田などの地名、そして徳川という川もあるとか。 そこの出身のササラ者(旅芸人)とか、または願人坊主だかが駿府にいた時、桶狭間の合戦で義元と同じく敗死したため影武者が必要になって、松平側はお家存続のために影武者としてその男をスカウトしたら天下人にまで出世したわけですかな」
高橋学長「長谷川良行 さん、ありがとうございます。まさに「世良田東照宮」まであるということはインパクトがちがいますね。 実は、金曜日に長谷川さんからいただいたコメントをヒントに「家康替え玉説」の深掘り動画をアップさせていただきます。感謝します。どうもありがとうございました」
長谷川良行「そうですか、こちらこそ感謝致します。お疲れ様です」

■日本史サロン(毎週火曜21:00~)

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■青江さんの評論

■時代考証・平山優先生のツイート


 大河ドラマ「どうする家康」第22回「設楽原の戦い」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイント解説をしましょう。

 中世の虹は、掛かっている場所、方角が不吉。なので駿河方面に掛かった虹をみて今川氏の不吉を信玄はみた設定。勝頼は織田・徳川軍の方に掛かった虹をみて相手の不吉、武田の吉兆をみた設定。

 決戦前夜の5月20日、信長本陣で武田方の様子を、忍びの報告をもとに披露したのが酒井忠次。『譜牒余録』によると、信長はいたく機嫌がよく、「海道一番の武辺者」と讃え、「噂に聞く夷舞」を所望し、忠次の舞を楽しんだとある。今回は、これが脚色の元ですね
 この後、鳶ヶ巣山砦の奇襲を献策したところ、信長は機嫌を損じ、忠次を退けたが、少しして秘かに呼び戻し、先ほどは情報が漏れてはと思い失礼した。見事な策ゆえ実行されたいと述べたのは、同書による有名な逸話。事実かどうかはわかりませんが。

 長篠の戦いを「長篠・設楽ヶ原の戦い」と呼ぶ方が正しいという方がおられます。私は、以下の理由で賛成しておりません。まず、同時代の人々が、長篠城攻防戦と決戦を含めて「長篠合戦」と呼称していること。次に「設楽原」という地名は、同時代史料には見えないのです。当時からの地名という説は今のところほぼ否定されています。当時、決戦場の地名は「有海原」であろうと推定されていますが、まだ確定ではありません。なので、私は「長篠合戦」と常に表記しております。

 今回の「どうする家康」で、決戦前に降雨だった描写に気づかれましたか? なぜ武田軍が決戦場に前進してきたのかは、今も最大の謎です。その理由の一つとして、ちょうど梅雨時であり、前日は雨だったことにあるとの説があります。これは『三河後風土記』に唯一記載されています。 これが事実かどうかは残念ながら確認できません。当時の東三河の天候を記す史料は皆無で、検証できず。松平家忠がこの時日記をつけていれば、そして残っていればとつくづく思います。ただ奈良の『多聞院日記』をみると、四月は空梅雨で不安げな記述があり、五月には少しずつ降雨があったようです。5月には「今般炎天」とあり、「祈雨」が実施されているほどの空梅雨だったらしい。そして5月21日には「少雨下」とあり、奈良では決戦当日、少しだけ雨が降ったようです。長篠はどうだったんだ~

Q:平山先生、「どうする家康」を一緒に見ている10歳の娘より、「なんで信康はまだ松平なの?」という素朴な疑問を投げかけられました。 平山先生のご見解はどういったものでしょうか?
A:家康は、関白近衛前久の斡旋により正親町天皇から、「従五位下三河守」に叙任され、姓を「徳川」に改めました。この結果、三河で「徳川」姓は家康一人のみとなったわけです。彼は、松平一族が多くいる三河で、それより上位に立つこととなりました(叙任と改姓はそれが狙いの一つ)。
 家康は、「徳川」姓を許可する範囲を極めて限定しており、息子信康ですら、「松平二郎三郎」のままでした(彼が成長し、家督を継いだら「徳川」になったことでしょう)。家康の生前に「徳川」姓を許可されたのは、二代将軍秀忠、九男義直(尾張徳川)、十男頼宣(紀州徳川)の三人だけです。それほど、朝廷の認可を受けた「徳川」姓を尊び、松平一族よりも上の家格の表現と、家康は位置づけていたのでしょう。その後、水戸徳川家の祖頼房も許可されましたが、それは家康の生前ではないようです(異説もあるが、確認できない)。

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