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一条忠頼の命日はどっち?

『吾妻鏡』には、次のようにある。

4月16日  「寿永」から「元暦」に改元
4月21日    大姫、源義高を逃がす。
4月26日    源義高、藤内光澄に討たれる。享年12。
5月1日   源頼朝、源義高一味征伐を命令。大軍が甲斐&信濃国へ。
5月2日   御家人たちが「いざ鎌倉」と集合
6月16日    一条忠頼を、酒宴の最中、天野遠景が暗殺
6月27日    藤内光澄、斬首

※『吾妻鏡』
https://note.com/sz2020/n/nd431a66fc68a

 鎌倉幕府公式史書『吾妻鏡』は、毎日書き継いだ日記ではなく、鎌倉時代末期に北条氏が複数の基礎資料をもとに編纂させた史書とされ、文末は「云々」(「~だそうである」「~と聞いている」の意)で、日付の間違い(参照した基礎資料の間違い?)や、北条氏に忖度して史実を曲げた記事があるといわれる。(たとえば、源義経の検非違使就任は、『吾妻鏡』では8月6日であるが、公家の日記『玉葉』では8月7日である。)

 『吾妻鏡』の2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第17回)「助命と宿命」の関連記事で、意味不明なのは、「元暦元年(1184年)5月1日」条の「故・志水冠者義高伴類等、令隠居、甲斐、信濃等國、擬起叛逆之由風聞之間、遣軍兵、可被加征罸之由、有其沙汰」(故人である源義高の伴類(ばんるい。一味)たちが、甲斐国や信濃国に隠れていて、「反逆を起こそうとしている」との噂が聞えてきたので、「軍隊を派遣し、征伐せよ」と、源頼朝の沙汰があった)である。(源頼朝の沙汰であろうから、「沙汰」ではなく、「御沙汰」とするべきであろう。)討たれた源義仲&義高父子の伴類(残党)がいて、仮に「弔い合戦」をしようと考えていたとして、その残党がいるのは、源義仲の本拠地である北信濃~北陸のはずであり、今回侵攻する甲斐国~南信濃は、甲斐源氏(武田信義&一条忠頼父子)の領地である。甲斐源氏が源義仲&義高父子の残党を匿っていたのだろうか?

 一条忠頼は酒宴の時に暗殺された。暗殺者は、『平家物語』では工藤資経、『吾妻鏡』では工藤祐経であったが、躊躇していたので、天野遠景が討ち取ったとある。
 『鎌倉殿の13人』の源頼朝は、源義高が逃げたことを知らせた一条忠頼を呼び、
「これは、これは、よう来られた。此度(こたび)はそなたが一番手柄じゃ。そなたがいなければ、義高を逃しておったぞ」
と褒めた後、(番人の工藤祐経から既に聞いていたのか)真剣な顔で、
「で、義高と何を話した?」
と尋ね、一条忠頼が答えられずにいると、
「さらばじゃ」
と言って席をたった。それが合図だったのか、北条義時は、
「一条忠頼、源義高をそそのかし、鎌倉殿への謀反を企んだ、その咎によって成敗いたす」
と言い、仁田忠常が背後から一条忠頼を斬った。(北条義時は闇落ちしたようで、無表情であった。)
 ようするに、『鎌倉殿の13人』では、鎌倉に来た武田信義&一条忠頼父子が源義高に接触し、反逆をそそのかしたので、一条忠頼を粛清したとする。

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 ※起請文(熊野那智大社の「烏牛王神符」の裏に誓いを書く)

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 ※「至于子子孫孫對御子孫不引弓可存貞節者也」とある。

北条義時「起請文は確かにお預かりいたしました」
武田信義「この武田信義、頼朝殿に弓引くつもりなど、微塵もなかった。息子は死ぬことはなかったのだ」
北条義時「これは警告です。二度と、鎌倉殿と競い合おうなどとお思いになりませぬよう」
武田信義「お前達はおかしい。狂っておる」
北条義時「謀反のつもりはなかったこと、鎌倉殿にはお伝えします。これで、我らが甲斐に攻め込むことは、ありますまい」
武田信義「謀反とは何か! 謀反とは、家人が主人に対して行うこと。わしは一度も頼朝を主人と思ったことはないわ!」
北条義時「・・・(無言で立ち去る)」
(武田信義、崩れる)
・・・
 源頼朝が「源義高を殺さない」という起請文を書いた起請文つながりで、武田信義の起請文を登場させたと思われるが、実は、武田信義が起請文を書いたのは、この時では無い。治承5年/養和元年(1181年)、「後白河法皇が武田信義を源頼朝の追討使に任じた」という噂が流れた。鎌倉に来た武田信義は、噂を否定し、「至于子々孫々、對御子孫、不可引弓(子々孫々に至るまで、御子孫に対し、弓を引くべからず)」という起請文を書いている。(この起請文があるので、甲斐源氏が反逆したら、即座に誅殺できる。)

■『吾妻鏡』「治承5年/養和元年(1184年)3月7日」条
 治承五年三月小七日癸未。大夫属入道〔三善康信〕送状申云、「去月七日、於院殿上有議定、仰武田太郎信義、可被下武衛追討廳御下文之由被定。又、諸國源氏平均可被追伐之條者、無其實。所限武衛許也。風聞之趣如此」者。
 依之、於武田非無御隔心、被尋子細於信義之處、自駿河國今日參着。「於身全不奉追討使事。縱雖被仰下、不可進奉。本自不存異心之條、以去年度々功、定思食知歟」之由。陳謝及再三之上、「至于子々孫々、對御子孫、不可引弓」之趣、書起請文、令献覽之間、有御對面。此間、猶依有御用心、召義澄、行平、定綱、景時、令候于御座左右云々。武田自取腰刀与行平、入御之後退出、返取之云々。

(治承5年/養和元年(1184年)3月7日。大夫属入道(三善康信)が手紙で言うには、「去る7日、院殿(後白河法皇の居所)での会議で、「武田信義に命令して、源頼朝を追討するように」との下文が下された。また、「国々の源氏を平らげるように」との話は「実」では無い。「実」は、倒す対象は、全国の源氏ではなく、源頼朝に限定されている。噂の内容は此のようものである」と。
 この報告に依り、「武田信義の隔心(裏切り)は無いとは言い切れない。子細は武田信義本人に尋ねよう」とした処、(タイミングよく、)駿河国から今日、本人が鎌倉に来た。「追討使の件は全く身に覚えが無く、たとえ命令されたとしても、断ります。本から異心(背く心)は無いことは、去年の度々の戦功によって分からないのですか?」と何度も陳謝(弁解と謝罪)をした上、「私の子孫の代になっても、あなたの子孫に対して弓を引く事はありません」と起請文(神や仏への誓いの文書)を書き、献覧(献上して見て頂くこと)の間、対面した。この時、用心して、三浦義澄、下河辺行平、佐々木定綱、佐々木盛綱、梶原景時を呼び、左右に置いたそうである。武田信義は、(「討ち取る意志は無い」と安心させるために)自ら腰刀を手に取って下河辺行平に渡し、源頼朝が奥の部屋へ入った後、返してもらったそうである。)

 『平家物語』は、『吾妻鏡』とは異なり、
「廿六日、一条次郎忠頼、誅たれけり。(中略)安田三郎義定は、忠頼が父、武田の信義を追討の為に、甲斐国へぞ趣きにける」
とある。一条忠頼の粛清は、6月16日の酒宴ではなく、4月26日の酒宴だとしているのである。つまり、一条忠頼は、藤内光澄が源義高を討ち取った日の酒宴で暗殺されたのであり、もしかしたら、源義高と一条忠頼の間には、『鎌倉殿の13人』で描かれたような関係があったのかもしれない。さらに『平家物語』では、安田義定が武田信義を討つために甲斐国へ向けて出兵したとある。とすると、『吾妻鏡』の5月1日の出兵の「源義高の残党の討伐」は名目であって、実は甲斐源氏を懲らしめるための出兵だったのであろう。

工藤祐経「怖い所だ。この鎌倉は」
北条義時「ようやく分かりましたか」
工藤祐経「私が生きていく所ではない」
北条義時「他に行く所があるのなら一刻も早く出ていく事をお勧めします」
工藤祐経「あなたは?」
北条義時「私にはここしかない」

「怖い所だ。この鎌倉は」━━何が怖いかって、反逆心を持つと、アサシン善児にこっそりと暗殺されるのではなく(これは、これで怖いが;)、複数の御家人に取り囲まれて、堂々と殺されることである。

「私にはここしかない」━━この言葉は、父・北条時政の「鎌倉殿から離れると粛清される」という言葉が効いているのか、兄・北条宗時の「源氏を利用して、北条家が御家人のトップに立つ」という願望にして遺志が効いているのか、それとも、(三浦義村には「源頼朝に似てきた」と言われるし、源義高には「信用できない」と言われるしで)あきらめ、自暴自棄で言い捨てた言葉なのか、それとも、決意表明のつもりで、自分に言い聞かせようと力強く言い放った言葉なのか。土曜の再放送で確認しよう。


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