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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第9回)「決戦前夜」


 源頼朝(大泉洋)は、長男・千鶴丸を殺し、自分の命も狙った憎き伊東祐親(浅野和之)を殺した者に褒美を出すといい、伊豆国伊東へ和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)らが向った。これを知った主人公・北条義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)は、祖父・伊東祐親と愛する伊東八重(新垣結衣)を救うため、近道を使って伊東へと向かう。
 伊東祐親は、万が一の場合、伊東八重を殺すよう、伊東八重の夫・江馬次郎(ご当地枠俳優枠の芹澤興人)に命じていた。江馬次郎が伊東八重の殺害を出来ずにいると、善児(梶原善)が出てきて江馬次郎を殺し、さらに伊東八重を殺そうとするが、三浦義村に腕を斬られて逃げた。
 一方、北条義時は、伊東八重と共に、伊東祐親に降伏するよう説き伏せた。(伊東八重の殺害は、最初から善児に頼めばよかったのでは?)
 源頼朝は、捕らえた伊東祐親を殺そうとするが、伊東祐親の孫の北条義時と北条政子(小池栄子)の助命嘆願により、三浦義澄預けとなった。伊東八重は、侍女を希望したので、御台所・北条政子により仮御所の厨房(くりや)に配属された。(伊東八重は、三浦館から仮御所に通った。)

 その頃、都を出た平家の追討軍が東海道を東進。一方、甲斐国では、共闘を約束した武田信義(八嶋智人)が南進し、平家方の駿河国目代・橘遠茂を倒し(「鉢田合戦」)、駿河国に侵攻した。
 富士川を挟んで平家の追討軍と源氏軍(源頼朝&武田信義)が対峙した。源頼朝も、武田信義も「自分が源氏の棟梁である」「自分がこの戦いの大将である」と世に示すため、イニシアチブ(主導権)争いをしていた。武田信義は、源頼朝に「襲撃は明後日」と嘘を言い、平家軍に夜襲をかけようとするが・・・。

1.伊東家の人々

伊東祐家┬嫡養子:伊東(旧・工藤)祐継【既に死亡】─工藤祐経
    └伊東祐親┬長男:河津祐泰─┬曽我兄弟(曽我祐成&曽我時致)
           ├次男:伊東祐清  └律師
           ├長女:北条時政前室【既に死亡】
           ├次女:三浦義澄正室
           ├三女:澄子(工藤祐経室→土肥遠平室)
           └四女:八重─千鶴丸(後の源忠頼)

※伊東祐親の娘:『曾我物語』には3人とある。これを根拠に、長女とされる北条時政前室を伊東祐親の妹とする説がある。

※伊東八重:源頼朝との間に千鶴丸を儲けるが、父・伊東祐親によって引き離され、江間近末と結婚させられた。
 父・伊東祐親と共に源頼朝軍に捕らえられ、三浦義澄預けとなり、鐙摺城(神奈川県三浦郡葉山町堀内)に幽閉された。夫・江間近末が討死し、父・伊東祐親が自害すると、源頼朝の仲介で相馬師常(千葉師胤)に再嫁した。

※源千鶴丸:溺死させられる直前に助けられて奥州に逃げ、元服して源忠頼と名乗った。子孫は、江戸時代は旗本であった。
 「溺死させられる直前に助けられて」ということであるが、多分、「水遊びしていた子供が溺死した(水死体が見つかった)」というニュースを聞いて、「これは好都合だ」と、その子を千鶴丸にしたてて(顔を潰して、千鶴丸の着物を着せ)、千鶴丸を奥州に逃がしたのではないかと思う。

※伊東祐親:伊東祐親は四女・伊東八重と共に源頼朝軍に捕らえられ、次女の夫・三浦義澄に預けられ、鐙摺城に幽閉された。源頼朝が山を登るときに「馬の鐙が地に摺れた」ことから名付けられたという鐙摺山(あぶずりやま)の山頂に、葉山町指定史跡「伊東祐親入道供養塚」がある。
 『曾我物語』には「聟の三浦の介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして召し出だし、鎧摺と言ふ所にて首を刎ねられける」とあるが、地元・葉山では、源頼朝に男子・万寿(後の源頼家)が誕生した時、恩赦で助命される(嫡男・千鶴はいなくなったが、新たに嫡男・万寿が生まれたので良しとする)も、「生き恥を晒したくない」と鐙摺城から所領の伊豆国伊東を執念深く見ながら(名残惜しみながら)自害したと伝えられている。
 自害の作法は「西(西方浄土)を向いて」である。『曾我物語』には「西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領、伊東、河津の方を見遣りて、執心深げに思ひ遣る」とある。西を向かなかったというが、鐙摺城から伊豆国伊東は南西にあたる。

■『曾我物語』「伊東が斬らるる事」
 さても、不忠を振る舞ひし伊東の入道は、生け捕られて、聟の三浦の介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして、召し出だし、鎧摺と言ふ所にて、首を刎ねられける。最期の十念にも及ばず、西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領、伊東、河津の方を見遣りて、執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。

■参考図書:永井秀尚『修羅の巨鯨 伊東祐親』(叢文社)

※伊東祐清(『吾妻鏡』では伊東祐泰):源頼朝は、以前、伊東祐親の暗殺計画を密告して逃がしてくれた恩により、伊東祐清に褒賞を与えようとしたが、伊東祐清は断り、上洛して平家軍に加わり(『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月19日条)、寿永2年(1183年)6月1日、加賀国篠原(石川県加賀市の旧篠原村)での「篠原の戦い」で討ち取られた(『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日条)。

■『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月19日条
 治承四年十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師、爲属小松羽林、浮船於伊豆國鯉名泊、擬廻海上之間、天野藤内遠景窺得之、令生虜。
 今日相具參黄瀬河御旅亭。而、祐親法師聟・三浦次郎義澄、參上御前、申「預之」。「罪名落居之程、被仰召預于義澄」之由。
 先年之比、祐親法師欲奉度武衛之時、祐親二男九郎祐泰依告申之、令遁其難給訖。優其功可有勸賞之由、召行之處、祐泰申云。「父已爲御怨敵爲囚人、其子爭蒙賞乎。早可申身暇者」。爲加平氏上洛云々。世以美談之。

 治承4年(1180年)10月19日。伊東祐親(寂心入道)は、平家方・小松惟盛軍に属すため、伊豆国鯉名泊(静岡県賀茂郡南伊豆町手石小稲)に船を浮べ、海路で向おうとしていたのを、天野遠景がこれを見つけて生け捕りにした(「鯉名の戦い」)。
 今日、黄瀬川の源頼朝の宿泊所に伊東祐親を連れて来た。すると、伊東祐親の娘聟(次女の夫)・三浦義澄が源頼朝の御前に参って、「伊東祐親を預かりたい」と申し出たので、源頼朝は「罪名が決まるまで三浦義澄に預ける」と言った。
 以前、伊東祐親が源頼朝を殺そうとした時に、伊東祐親の次男・伊東祐泰(注:祐清の誤り)が暗殺計画を密告したので、源頼朝は、その難から逃げる事が出来た。その功績を賞しようと伊東祐泰(注:祐清の誤り?)を呼び出したところ、伊東祐泰(注:祐清の誤り?)は言った。「父が怨敵(おんてき)として囚人となっているのに(捕まっているのに)、その子が何故賞をいただけましょうや。(賞を与えてくれると言うのであれば、賞として)早く父にお暇を与えて(釈放して)下さい」と。その後、上洛して平家に味方したという。この話は、世に美談として伝わっている。
■『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日条
 建久四年六月小一日丙申。曾我十郎祐成妾・大磯遊女(号虎)雖被召出之、如口状者、無其咎之間、被放遣畢。又、有五郎弟僧。父・河津三郎夭亡之後、當于五ケ日所生也。而、伊東九郎祐淸妻収養之。祐淸加平氏、北陸道合戰之時、被討取之後、其妻嫁武藏守義信。件僧同相從、在武藏國府。「可被行兄等同意」之由、祐經妻子訴申之間、爲被尋子細、被遣御使於義信朝臣之許云々。祐成等繼父・曾我太郎祐信、恐怖雖消魂、依無同意支證被宥云々。

 建久4年(1193年)6月1日。曽我祐成の妾の大磯の遊女(「虎」という)を呼び出したが、彼女の言う通りであれば、罪は無いので釈放した。
 また、曽我時致には、弟の僧・律師がいる。父・河津祐泰(伊東祐親の長男)の死後、5日目に生まれた。そこで、伊東祐清の妻が引き取って育てた。
 伊東祐清は、平氏に加わり、北陸道での合戦(寿永2年(1183年)6月1日、加賀国篠原(石川県加賀市の旧篠原村)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘「篠原の戦い」)で討ち取られた後、その妻(比企尼の三女)は、大内義信(平賀義信)に再嫁した。その僧も母と一緒に武蔵国の国府にいる。「兄達と同じように処分して欲しい」と、工藤祐経の妻子が訴えてきたので、子細を尋ねる為に使者を大内義信の所へ派遣したという。曽我祐成の継父・曽我助信は、(罰っせられると思い込み)恐怖で魂が消えるかと思われたが、同意した証拠が無いので許されたという。(律師は、建久4年(1193年)5月28日、鎌倉に召し出された。「梟首させられる」という噂を聞いた律師は、自害した。源頼朝は、「同意していたか否か尋ねるだけで、死罪にする気はなかった」と、自分が召し出したために誤解され、死に追い込んでしまったことを悔やんだという。 )

※伊東祐親の御子孫

■三浦澄子「三浦半島の「伊東祐親」伝承」(『三浦一族研究』第7号)
  
 葉山日影茶屋前の円い小山は旗立山、軍見山などと呼ばれ、三浦一族の鐙摺館物見の場とされている。近年この山の頂上に伊東祐親の供養塚がきずかれた。
 葉山町では
 「頼朝の宿敵として捕らえられた祐親は、娘箪三浦義澄に預けられ数年を衣笠で過ごしたが、政子の頼家出産を機に助命されることとなった。しかし祐親は、頼朝に対して行った数々の前非を恥じるとして、旗立山から伊豆伊東を望みつつ自害したとされている。葉山の旧家伊東家には祐親を祖とする伝承があるところから、鎮魂のため山頂に石塔を供養した」という。五輸石塔は山頂に埋もれていたものとか。
 伊東祐親は曽我兄弟の祖父として知られているが、果雄と称される策謀家でもあった。彼の周到な婚姻による閨閥図は、頼朝をめぐる北条、三浦、伊東三氏のただならぬ関係を秘めている。祐親の娘達の一人は北条時政に嫁し政子と義時を生んでおり、一人は三浦義澄妻、一人三浦澄子は同族工藤祐経の妻となるが夫と父の不和から土肥遠平に再嫁。また頼朝に愛され一子を得たものの、父に引きさかれ江間小四郎に嫁した女子が知られている。
 子息等もその出自によって源平それぞれに分かれた。祐親は伊東の家名存続のためにもぬかりない布石を打っているのだ。彼自身は平家に心服していたようで、頼朝の性格とは反りが合わなかったのであろう、恩赦を得ても屈服せず自匁した。
 治承四年十月鯉名港から平家方に向かうところを捕らえられた祐親は、三浦義澄に預けられ寿永元年二月白害に至るまでの数年を衣笠で過ごしたとされたが、どのような扱いを受けていたかは定かでない。娘の義澄夫人は敗残の父に対し孝養を尽くしたであろうし、まだ幼い孫義村にも影響を与えたに違いない。義村にこそ祐親の血が濃く受け継がれたように思えてならない。
 衣笠幽居中も当然侍妾がはべり、子を儲けたであろうことが想像され、葉山に残る子孫伝承となったと思われる。
 伊東家に就いて、元葉山町長田中富氏の著書から要約させて頂く。
「葉山木古庭の伊東孟義氏の家には、文禄3年(1594)の太閤検地以来の古文書数百点が秘蔵されており、伊豆の豪族伊東祐親の後商であると伝えられる家柄。祐親は頼朝に敵対して捕らわれ、女婿の三浦義澄に預けられるが、義澄の助命運動が成功して鎌倉へ出向く途中、鐙摺山頂で自刃した。侍妾の遺児は三浦氏の庇護のもと木古庭に住んで伊東を名乗り今日に及んでいる。天正時代以降は代々、木古庭の名主として明治維新を迎えた。
 先々代の伊東春義武は明治初年から大正14年まで56年間、名主-戸長-村長-町長を勤め、葉山町の基礎を築いた人物として名誉町民とされた。
 家紋は庵木瓜(いおりもっこう)で、伊東家も同族の工藤祐経も同じ家紋だった。曽我兄弟の仇討では工藤陣屋の目印となっている。五郎十郎兄弟は祐親の長男河津祐泰の子で、伊豆の名族、狩野・伊東・工藤全て同族。仇討の発端は同族間の内紛であった。」
 伊東家は祐親の思い通り家名を残し、江戸時代には九州日向で5万3千石。備中岡山で1万3千石の大名になっている。
 父に殉じて平家に走り美談と讃えられた次子祐清の子孫が岡山伊東家であるという。後に天正少年使節として海外のローマに名をとどめた伊東マンショもその裔であった。 

※江間近末(江馬次郎):伊東八重と結婚させらて、1子・江馬小次郎を儲けた。江間近末の討死後、その遺児を北条義時が引き取って育て、元服時には烏帽子親となったという。この江馬小次郎が、元服後、どうなったのか分からない。北条泰時になったとすると、北条泰時の実の両親は江間近末と伊東八重ということになる。(北条泰時の両親は「北条義時と阿波局」とされる。阿波局については、「大倉御所の女房(官女)」という以外は不明である。阿波局=伊東八重であれば、伊東八重は『鎌倉殿の13人』の伊東八重のように大倉御所の官女になったことになる。)
 『鎌倉殿の13人』の江馬次郎役は、ご当地枠俳優枠の芹澤興人さんである。静岡県沼津市出身の芹澤興人さんは、加藤学園暁秀から中央大学文学部哲学科へ進学し、中学&高校の教員免許を取得されている。趣味は読書、映画鑑賞、神社・仏閣巡り、城巡りと、私に似ている。(私の場合は、映画鑑賞ではなく、TVドラマ鑑賞である。)今回、ご当地枠俳優が殺されていなくなったということは、「ご当地」が伊豆国から相模国に移ったことを意味する。


■『鎌倉殿の13人』と史実(?)との相違点

①『鎌倉殿の13人』では、「伊東祐清は、援軍を求めて鯉名泊(鯉名湊)から出航しようとした時に捕縛されたとし、伊東祐親は、伊東館に伊東八重と共にいた」とするが、『吾妻鏡』では、「鯉名泊(鯉名湊)から出航して、平家軍に加勢しようとした伊東祐親が捕縛された」とする。

②『鎌倉殿の13人』では、江間近末は、「石橋山の戦い」、もしくは、「篠原の戦い」で討死したのではなく、「善児に殺された」とした。この調子だと、源頼朝の死因は「落馬」ではなく、「善児が暗殺」になりそうである。(あと「伊東八重を殺せ」という命令がまだ達成されていない。いずれ、伊東八重も殺すのであろう。阿波局は、北条泰時を生むと、歴史から消えている。善児に殺されたのか?)

2.富士川の戦い

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■『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月19日条
 治承四年十月小廿日己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又、左少將惟盛、薩摩守忠度、參河守知度等、陣于富士河西岸。
 而及半更、武田太郎信義、廻兵畧、潜襲件陣後面之處、所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧。依之、平氏等驚騒。爰、次將・上總介忠淸等相談云。「東國之士卒、悉属前武衛。吾等憖出洛陽、於途中、已難遁圍。速令歸洛、可搆謀於外」云々。羽林已下任其詞、不待天曙、俄以歸洛畢。

 治承4年(1180年)10月20日。源頼朝は、駿河国賀島(静岡県富士市加島)に到着した。また、平維盛、平忠度、平知度等は、富士川の西岸に陣を敷いた。
 しかし、夜半になって、武田信義が兵略(作戦)をめぐらし、ひそかに平家の陣の背後を襲ったところ、富士沼に集まっていた水鳥が群れをなして飛び立ち、その羽音は、軍隊の粧(よそおい。様子)にそっくりであった。これにより、平家軍の兵は驚き、騒いだ。この時、次将・上総忠清(伊藤忠清、藤原忠清)などが相談して言った。「東国の兵隊は全て源頼朝に属している。我々平家は無理を押して京都を出て、(鎌倉を攻める)途中で既に囲まれて逃げられなくなっている。ここは速やかに京都へ戻り、他の謀(作戦)を考えた方が良い」と。平知盛以下はこの伊藤忠清の言葉に従い、夜明けを待たずに、すぐに京都へ帰った。

最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても今だけはここにあるよ
君のまま光って行けよ♪

■大河紀行

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             ※地図:『静岡県の歴史散歩』(山川出版社)

▲「富士川の戦い」の戦場は、戦国史上有名な善得寺があった富士市今泉だとされるが、(富士川の流路の変化や埋め立てによって)詳細な位置は不明である。ただし、合戦関連の伝承地はある。
平家越(富士市新橋町):平家軍が敗走した場所
https://hellonavi.jp/detail/page/detail/1147
横割八幡宮(富士市横割2丁目):源頼朝が戦勝祈願をした神社
日吉神社(富士市鮫島):道先案内・鮫島宗家の氏神社
和田神社(富士市今泉上和田):和田義盛の陣地
鎧ヶ淵(富士市原田の鎧ヶ淵親水池公園):源頼朝が身体を洗った淵
呼子坂(富士市宇東川西町):「富士川の戦い」の時、この坂道で呼子(よびこ)を吹いて兵を集めたので、「呼子坂」と呼ばれるようになったという。(ちなみに、愛知県名古屋市の「呼続」は「船が出るぞ~」と声のリレーをした(呼び次いだ)のが地名の由来だという。)
※「万葉紀行「手児の呼び坂」」
https://note.com/sz2020/n/n61b5a1691f78

<「富士川の戦い」の実際>

①斎藤実盛が「坂東武者は恐ろしく強い」と恐怖心を植えつけた。
②戦場の庶民は、山野や海に逃げた。炊事の火を見た平家軍は、「源氏軍は山にも野にも海にもいる。囲まれた」と思ってしまった。
③寄せ集めの平家軍の兵の中には逃亡する者や、源氏方に寝返る者も出て、兵数が減った。
④平家軍の兵は、水鳥の羽音を敵襲と間違えてあわてた。
⑤副将・伊藤忠清は、兵数が減ったことや、残った兵が水鳥の羽音に驚く様子を見て、大将・平維盛に帰洛(京都への撤退)を提案し受け入れられた。
⑥瀬田まで撤退し、手紙で報告すると、平清盛は怒って入洛を拒否したが、密かに帰洛した。

▲呉座 勇一 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第8・9話
「水鳥の羽音を敵の夜襲と勘違い!? 平氏追討軍ヘタレ伝説の数々」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93011

▲大河ドラマ「鎌倉殿の13人」新たな出演者決定!
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=33271

・静御前はダンサーの石橋静河さん(27歳)。日本舞踊も出来る??
 石橋静河さんの父親は男優・石橋凌さん(2020年『麒麟がくる』の武田信玄、2010年『龍馬伝』の朝比奈昌広、1988年『武田信玄』の織田信長)、母親は女優・原田美枝子さん(1991年『太平記』の阿野廉子、2001年『北条時宗』の桔梗)、はTBS系金曜ドラマ『妻、小学生になる。』の主題歌「灯火」を歌っているシンガーソングライター・優河さん。

・「公暁」の読みは、従来は「くぎょう」。師が「公胤(こういん)」なので、正しくは「こうぎょう」ではないかとする説が採用された。

★源頼朝様はコロナに感染されたとか。心配です。

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①中原(1216年以降大江)広元(栗原英雄)
②中原親能(?)=大江広元の兄
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆)
⑤梶原景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)=側近
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)=三浦義澄と水鳥が羽ばたく原因を作る。
⑪北条義時(小栗旬)=伊東館に三浦義村と共に救出に向う。
⑫三浦義澄(佐藤B作)=北条時政と水鳥が羽ばたく原因を作る。
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)=伊東館に伊東祐親を討ちに向う。

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲「鎌倉殿の13人 ロケ地ガイド」
http://loca.ash.jp/show/2022/t2022_kamakura.htm

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