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源実朝殺人事件『愚管抄』


左大臣闕ありければ、内大臣実朝、思ひの如く、右大臣になされにけり。さて京へは上らで、この大将の拝賀をも関東鎌倉に祝い参らせたるに、大臣の拝賀、又、いみじくもてなして、建保七年正月廿八日甲午、拝賀遂げんとて、京より公卿五人、檳榔(びんろう)の車具しつつ下り集まりけり。五人は、
大納言忠信、内大臣信清息。
中納言実氏、春宮大夫公経息。
宰相中将国通、故・泰通大納言息 朝政旧妻夫也。
正三位光盛、頼盛大納言息。
刑部卿三位宗長、蹴鞠之料に本下向云々。
 ゆゆしくもてなしつつ拝賀遂げける。夜に入て奉幣終えて、宝前の石橋を下りて、扈従(こじゅう)の公卿、列立したる前を、揖(いふ)して、下襲の尻引きて、笏持ちて行きけるを、法師の行装(けうさう)、兜巾(ときん)と云ふ物したる、馳せかかりて、下襲の尻に上にのぼりて、頸(かしら)を一の刀には切りて、倒れければ、頸をうち落として取りてけり。追いざまに三、四人、同じやうなる者の出で来て、供の者、追い散らして、この仲章が前駈けして火振りて有りけるを「義時ぞ」と思ひて、同じく切り伏せて殺して失せぬ。義時は太刀を持ちて傍(かたは)らにありけるをさへ、「中門に留まれ」とて留めてけり。大方用心せず、さ云はんばかりなし。皆、蜘蛛の子を散らすが如くに、公卿も何も逃げけり。賢く光盛はこれへは来で、鳥居にまうけて有りければ、わが毛車に乗りて帰りにけり。皆、散々に散りて、鳥居の外なる数万の武士、是を知らず。
 此法師は、頼家が子を其の八幡の別当になして置きたりけるが、日比、思ひ持ちて、今日、かかる本意を遂げてけり。一の刀の時、「親の敵はかく討つぞ」と云ひける、公卿ども、鮮やかに皆聞きけり。
 かくしちらして、一の郎等とをぼしき義村三浦左衛門と云ふ者のもとへ、「われ、かくしつ。今は我こそは大将軍よ。それへ行かん」と云ひたりければ、この由を義時に云ひて、やがて一人此実朝が頸を持たりけるにや、大雪にて雪の積もりたる中に、岡山の有りけるを越えて、義村がもとへ行きける道に人を遣りて打てけり。頓(とみ)に討たれずして、切散らし、切散らしして逃げて、義村が家の鰭板(はたいた)のもとまで来て、鰭板を越へて入らんとしける所にて打ち取りてけり。
 猶猶、頼朝ゆゆしかりける将軍かな。それが孫にてかかる事したる武士の心ぎは、かかる者出でき。又、愚かに用心なくて、文の方ありける実朝は、又、大臣の大将汚してけり。亦、跡も無く失せぬるなりけり。実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり。
 日頃、若宮とぞ此の社は、云ひならいたりける。其の辺に房作りて居たりけるへ寄せて、同意したる者共をば、皆、討ちてけり。又、焼き払いてけり。
 かかる夢の又出できて、二月二日のつとめて、京へ申して聞こへき。院は水無瀬殿にをはしましけるに、公経大納言のがり実氏などが文(ふみ)有りければ、参りて騒ぎ惑いて申してけり。この二日、卿二位は熊野へ詣でして天王寺に着きて候けるに、「かく」と告げければ、帰らんとしけるを、「あなかしこ。な帰りそ」と、御使をひをひニ、三人まで走れりければ、やがて参りにけり。
 さて、こは不可思議のわざかなにて有りける程に、下向の公卿も、又、やうやう皆上洛してけり。さて、「鎌倉は将軍が跡をば母堂の二位尼惣領して、猶、舅(せうと)の義時右京権大夫、沙汰して有るべし」と議定したる由、聞こへけり。其の夜、次の日、郎従、出家する者、七、八十人まで有りけり。様、悪しかりけり。広元は、大膳大夫とて、久く有りける。この先(さき)に目を病みて大事にて目は見えず成りにけり。「少しは見るにや」などにて出家してあんなれども、今はもとには似ぬなるべし。其の子も、皆、若若として出家してけり。入道の多さ、云ふばかりなし。
 かかる事共あれば、公卿の勅使たてられけるに、宸筆宣命には「文武の長の失せぬる由には、去年冬、左大臣良輔朝臣、今年春、実朝、如此失せぬる。驚きをぼしめす由」こそ載せられたりけれ。良輔の大臣(をとど)、誠にやんごとなかりける人かな。

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