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三浦天皇こと三浦芳聖(よしまさ)

前に書いた記事「豊田佐吉は三浦一族の佐原佐吉です。」のコメント欄に、
「三浦一族は南朝の三浦皇統家と関係がありますか?」
というコメントがついたので、お答えしておく。

たまには黒ビール

 第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した19人の人物を総称して「自称天皇」というが、三浦天皇(三浦芳聖)もその1人である。19人のうち8人は怪しいが、残り11人には系図等の根拠があり、教科書に載っている正史と、各天皇が主張する根拠のどちらが史実なのかは不明である。

以下は、三浦天皇が主張する根拠である。


南朝には、「正副二統」が存在した。
吉野朝は、後醍醐天皇が陽動作戦のために設けた偽装朝廷「副統」であり、「正統」は、「三種の神器」を引き継いだ第一皇子の北陸朝である。

 延元元年(1336年)10月、第一皇子・尊良親王(後醍醐天皇と二条為世の娘・為子の子)は、後醍醐天皇から密かに皇位を継承し、「三種の神器」を持って北陸に落ち、東山天皇と名乗って「北陸朝」を樹立した。その皇統は

後醍醐天皇(尊治親王)ー東山天皇(尊良親王)ー興国天皇(守永親王)ー小松天皇(興良親王)ー松良天皇(正良親王)ー大宝天皇(美良親王)

である。
 「北陸朝」最後の大宝天皇は、享徳3年(1454年)、天照大神の神勅により、「三種の神器」を逃亡先の岡崎市の地中深く埋め、農民となった。天皇には名字がないので、皇后・三浦佐久の名字を使って「三浦藤太夫」と称した。

57三浦義勝─58宇津義利┬長男
            ├次男
            ├三男・59宇津宗正─61宮下宗明┬62宮下宗泰
            ├四男            └三浦佐久
            └五男・60富士義忠        ├…三浦天皇
                       大宝天皇(三浦藤太夫)

・三浦義勝(第57代富士三浦左京亮義勝)
https://dl.ndl.go.jp/pid/965674/1/273

・三浦佐久(佐久姫)
 ・三浦義勝5世孫。父は三浦宗明(第61代宮下源太夫宗明)
 ・楠木正成6世孫。母は楠木正親の娘・冬子。
 ・富士山本宮浅間大社のご祭神・木花佐久耶姫の化現とされる。

(注)右が北。「宇宙湖」とは、現在の山中湖と忍野八海。

●阿曽谷宮守神社:「富士山元宮小室浅間太神宮」「富士太神宮」「大明見小室浅間神社」「富士山北東本宮小室浅間神社」とも。現在の「北東本宮小室浅間神社」(山梨県富士吉田市大明見)であり、上吉田の北口本宮冨士浅間神社(下浅間)、下吉田の小室浅間神社(下ノ宮浅間)、吉田口二合目の冨士御室浅間神社旧本宮(上浅間。旧・小室浅間神社)とは別の小室浅間神社である。
 ・崇神天皇6年(紀元前92年)、「阿曽谷神社」を鎮祭。
 ・神宮皇后54年、大山守皇子が宮司になり「阿曽谷宮守神社」と改称。
 ・崇峻天皇2年(589年)、聖徳太子が「富士山元宮阿座眞明神」と改称。 ・貞享3年(1686年)、古屋敷から新屋敷(現在地)へ遷座。
 ・明治19年(1886年)、「北東本宮小室浅間神社」に改称。
 ・明治16年(1883年)、『富士古文献』を公開。
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/7021

●『富士古文献』:阿曽谷宮守神社の宮司家だった宮下家に伝来した文字資料で、木や石に「だんべい文字」で書かれていたが、秦の始皇帝の時代に富士高天原にやってきた徐福が漢文で書き直した。次のような異称がある。
・『宮下文書』:阿曽谷宮守神社宮司・宮下家に伝来した文字資料。
・『徐福文書』:徐福が編集し、漢文で書いた『宮下文書』。
・『寒川文書』:相模国一宮・寒川神社に保管されていた『富士古文献』。

富士山の南麓には「富士王朝」(富士山の噴火により埋没)があり、阿曽谷宮守神社があった富士(福地)山の北麓は「高天原」と呼ばれていた。延暦19年(800年)4月、富士山の噴火により阿曽谷宮守神社は焼失し、神社の関係者は相模国高座郡に移住し、流れていた河川名を、高天原を流れる「寒川」にちなみ、「寒川」と命名した。北東本宮小室浅間神社の宮司・宮下義仁は、相模国一宮・寒川神社で『富士古文献』を発見し、書き写して北東本宮小室浅間神社で保管したのが『寒川文書』である。(源頼義のひ孫・三浦義顕の長男・三浦義仁(源重成)は宮下家に婿入りして宮下義仁と名乗り、彼の長男・宮下義国は、三浦義澄の娘を娶った。なお、寒川神社に保管されていた『富士古文献』は弘安5年(1282年)の大洪水で消失した。)
 現在公開されている『富士古文献』の文体は、漢語と万葉仮名を併用し、助詞の用例などの言語的特徴から成立は幕末だという。徐福が書いた漢文を幕末に書き下したのだろうか。(『富士古文献』は114冊の古文書からなる。徐福が書いた古代王朝の部分のみが着目されているが、南北朝についての記述は、もちろん、徐福が書いたものではない。)

・『神伝富士古文献大成』全7巻+別冊付録(八幡書店):影印本
・三輪義熙『富士古文書資料 神皇記』:概説書 ※復刻版あり
https://dl.ndl.go.jp/pid/965674
・神奈川徐福研究会・神皇紀刊行部会 『現代語訳 神皇紀』
・三輪義熙『富士史』
・三輪義熈『長慶天皇紀略』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1019673
・「幻の富士南朝-『宮下文書』-」
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/fujinancho.html
・神原信一郎『高天原』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1686507
・神原信一郎『自然科学より見たる日本神代史』
https://dl.ndl.go.jp/pid/957986
・神原信一郎『南朝史の研究』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172795
・神原信一郎『富士宮下文書の研究』
・司馬祜男 『『宮下文書』の科学的検討』 (全5巻)
・伊藤健二『富士古文献の謎を解く』講演資料
http://xufu.sakura.ne.jp/201811.24hujikobunken.pdf

 相模三浦一族は、「宝治合戦」で、豊田佐吉を輩出した佐原氏(神奈川県横須賀市佐原)を除いて全滅したというが、大多和氏(神奈川県横須賀市太田和)も富士へ逃げ、「建武の新政」に貢献したという。(『太平記』(巻10)「三浦大多和合戦意見事」に「三浦大多和平六左衛門義勝」(家祖・大多和(三浦)義久の5世孫。新田義貞の鎌倉討伐に馳せ参じ、戦功を挙げた)が登場する。)

懸かりし程に、義貞も無為方思し召しけるところへ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼ねてより義貞に心ざしありしかば、相摸の国の勢・松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷を具足して、以上その勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳せ参る。義貞、大きに悦びて、急ぎ対面あつて、礼を厚くし、席を近付けて、合戦の意見をぞ、訪ねられける。

(こうして、新田義貞も思い悩んでいるところへ、三浦義勝(三浦義行の誤り?)は、以前から新田義貞に心を寄せていたので、相摸国の松田氏、河村氏、土肥氏、土屋氏、本間氏、渋谷氏を引き連れ、総勢6000余騎で、15日の夕方、武蔵国分倍河原の新田義貞の陣へ馳せ参じた。新田義貞は大変喜び、急いで対面し、厚く礼を言い、近寄って、合戦「分倍河原の戦い」の意見を求めた。)

『太平記』(巻10)「三浦大多和合戦意見事」

・三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』
・三浦芳聖『神風串呂』
・串呂哲学研究会
https://note.com/shinpukanro
・「串呂哲学研究ノート」
http://kanro.0394.daa.jp/

・三浦氏氏族宗家41代・岩間尹『実録秘史南北朝の真相』
https://dl.ndl.go.jp/pid/2985894/
・三浦氏氏族宗家41代・岩間尹『実録三浦党』
https://dl.ndl.go.jp/pid/3006197

・鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』

質問「三浦一族は南朝の三浦皇統家と関係がありますか?」
回答「三浦皇統家の「三浦」は、三浦大多和氏の「三浦」です」

三浦義継─義明┬長男:杉本義宗─和田義盛
        ├二男:三浦義澄┬三浦義村
        │       └女子(宮下義国室)
        ├三男:大多和義久…三浦義勝…佐久
        ├四男:多々良義春      ├…三浦天皇(三浦芳聖)
        ├五男:長井義季       大宝天皇(三浦藤太夫)
        ├六男:杜重行
        └七男:佐原義連…佐原伊吉─豊田(佐原)佐吉…豊田章男

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