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『鎌倉殿の13人』46「将軍になった女」の再放送を見ての感想

前回の私の記事が読まれたのか大江広元が坊主になってました(笑)
大江広元は、「目が見える内に」と言って出家しました。
源実朝が討たれた日には、既に出家していました。
源実朝が討たれて出家したのは大江広元の息子です。

さて、今回の感想は、
「北条政子のハートが弱すぎる」
です。悪女ではなく、慈悲深い女性とするのはいいとして、源実朝が討たれて自害しようとするなんて弱すぎる。これでは、尼将軍になれそうにない。(施餓鬼へ行き、ネットでは「亀の子供では?」と噂されているウメ(石川萌香)等に励まされて立ち直った。「ウメ」は、日テレ「モモウメ」のベテランOL・ウメさん(江口のりこ)からか?)

実際の北条政子は、源実朝が討たれてすぐに尼将軍の如く振舞っている。
「今夜のうちに公暁の一味を糾弾せよ」
この命令を発したのは、北条義時ではなく、北条政子である。

■『吾妻鏡』「建保7年(1219年)1月27日」条
又、「今夜中、可糺彈阿闍梨群黨」之旨、自二位家被仰下。信濃國住人・中野太郎助能、生虜少輔阿闍梨勝圓、具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

((源実朝が討たれると)「今夜のうちに公暁の群党(一味)を糾弾せよ」と、二位家(北条政子)より命令が出た。信濃国の住人の中野助能は勝円を生け捕り、北条義時邸に連行した。これは、公暁の受法の師だからだという。)

「源実朝殺人事件」の謎は、
①源実朝を殺したのは誰か?
②源仲章を殺したのは誰か?
である。(①については長くなるので、別稿「公暁の首」で。)

『鎌倉殿の13人』では、公暁が源仲章を殺し、続いて源実朝を殺した。普通、大樹の陰から暗殺者が飛び出してきたら、源実朝は、逃げるか、戦うかであろう。『鎌倉殿の13人』の源実朝は、暗殺者が公暁だと認識して逃げなかった(天命に従った?)。
 私が公暁であれば、まずは太刀持ちを倒す。すると源実朝は、太刀を受け取れず、戦うことができないので、逃げるであろう。あとは、太刀を持っていない源実朝を追って斬ればいい。ただ、太刀持ちを倒すのに時間がかかると、源実朝は遠くまで逃げてしまう。暗殺を成功させるためには、共犯者を探し、太刀持ちと源実朝への同時攻撃がよかろう。

■『吾妻鏡』「建保7年(1219年)1月27日」条
及夜陰、神拝事終。漸令退出御之處、當宮別當阿闍梨公曉、窺來于石階之際、取劔奉侵丞相。

(公暁が、石段の脇に忍び寄り、太刀を(手に)取って、源実朝を殺害した。)

■『愚管抄』
夜に入て奉幣終えて、宝前の石橋を下りて、扈従(こじゅう)の公卿、列立したる前を、揖(いふ)して、下襲の尻引きて、笏持ちて行きけるを、法師の行装(けうさう)、兜巾(ときん)と云ふ物したる、馳せかかりて、下襲の尻に上にのぼりて、頸(かしら)を一の刀には切りて、倒れければ、頸をうち落として取りてけり。追いざまに三、四人、同じやうなる者の出で来て、供の者、追い散らして、この仲章が前駈けして火振りて有りけるを「義時ぞ」と思ひて、同じく切り伏せて殺して失せぬ。

(公暁は源実朝の裾の上に乗り、源実朝を斬った。続けて3~4人出てきて、北条義時だと思って源仲章を斬って立ち去った。)

■『承久記』
さる程に、若宮の石橋の辺に近付かせ給ふ時、美僧三人、いづくより来るともなく、御後に立ち添ひ参らせけるが、左右なく御頚を打ちをとし参らす。一の太刀は、笏にて合はせ給ひぬ。次の太刀に切り伏せられ給ふ。又、次の刀に文章博士・仲章、切られにけり。次の刀に伯耆前司・師範、疵を蒙りて、翌日に失せぬ。
■『承久軍物語』

石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧三人、現れ来て、将軍を犯し奉る。初め一太刀は、笏にて合はせ給へども、次の太刀に御首は落され給ひけり。文章博士・仲章、伯耆前司・師範も斬られけり。

(どこからともなく3人現れ、源実朝は、笏を太刀のかわりにして応戦したが、斬られた。源仲章も斬られた。源師範も斬られて深手を負い、翌日亡くなった。)

やはり、公暁は単独犯ではなく、共犯者が2~3人いたようです。北条政子の
「今夜のうちに公暁の一味を糾弾せよ」という命令は、「今日中に公暁と共犯者2~3人を捕らえ、源実朝暗殺の動機を問い糺し、関係者を全て捕らえよ」ということでしょうか。さて、源仲章を殺したのは誰?

史実①「後鳥羽上皇、長江&倉橋(椋橋)荘の地頭変更要求」の件

これは、ドラマ通り、後鳥羽上皇が寵愛していた伊賀局(旧・白拍子の亀菊)の訴えだという。

■『吾妻鏡』「建保7年(1219年)3月9日」条
建保七年三月大九日甲辰。仙洞御使・忠綱朝臣、參禪定二品御亭(右府御舊跡)、「右府薨御事、叡慮殊御歎息」之由、依被仰下也。
 次、謁申于右京兆。是、「攝津國長江倉橋兩庄、地頭職可被改補事」已下、院宣條々也。

(仙洞(後鳥羽上皇)の使者・藤原忠綱が、禅定二品(北条政子)の邸宅(元は源実朝の屋敷)に来て、「右府(右大臣・源実朝)が亡くなった事について、後鳥羽上皇は大変、嘆き悲しんでいる」と、伝えた。
 次に北条義時に謁見し、申し入れた。それは、「摂津国の長江庄と倉橋(椋橋)庄(大阪府豊中市)の地頭職を交替させる事」以下、院宣(後鳥羽上皇の命令書)の条々であった。)

※「改補」:現任者を解雇して、新任者を補任すること。

史実②:三寅下向の件

「我が九条の一門、道家公の三男は、寅の年、寅の月、寅の刻の生まれゆえ、「三寅」と呼ばれておる。源頼朝卿の妹君が一条能保卿に嫁がれ、その長女は、月輪関白兼実の子・後京極摂政良経公に、そのまた次女は、大宮大納言公経卿に嫁ぎ、その姫君が後京極摂政の子である道家公に嫁がれ、その間に生まれたのが、三寅様にござる」

  ┌九条兼実─九条良経       
  └慈円     ├─────九条道家
  一条能保  ┌長女     ├長男・九条教実
     ├────┤        ├次男・二条良実
  源頼朝の妹 └次女・全子  ├三男・三寅(後の九条(藤原)頼経)  
         ├─────女子・綸子     
       西園寺公経

「外郎売り」を思い出した。声優は、台本を見ながらアフレコするわけで、台本を暗記し、かまずに長台詞を言える声優さんは、すばらしい。

「三寅下向」については、従来、西園寺公経の尽力だと考えられてきたが、最新の学説では、慈円(九条兼実の弟)の尽力だとされる。(今回、時代考証の学者たちが、珍しくいい仕事をした。台詞は、「我が九条の一門、道家公の三男は」よりも、「我が姪孫(てっそん。甥の子)、九条道家公の三男は」ともっと強く自分をアピールした方が慈円らしいと思う。)

最後に、今回で、最も重要な台詞は、
(息子・阿野時元が死んで)「みんな、いなくなった」(北条実衣)
(北条実衣に)「みんないなくなっちゃった」(北条政子)
だと想像されますが、どうでしょう?

 さて、昨日、めでたくもボーナスが出たので(本来は12/10支給だけど、今年の12/10は、銀行振り込みが出来ない土曜日なので、1日早まった)、ちょっと買い物に行ってきます。普段は食べられない高級食材とか買ってくる予定。あとは、炊飯器とか。
 大阪のアリス展へ行く交通費とアリスグッズの購入費は残しておかねば。公式サイトに、会場で販売するアリスグッズの一覧が載ってるけど、欲しい物を全部買うと、交通費込みで10万円くらい。今はリッチなので買えると思うけど・・・。イギリスにはアリスグッズの専門店がある。日本支店を建てて欲しいぞ(←クラウド・ファンディングで、自分で作れって?)。


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