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「源頼朝が詠んだ和歌10首と連歌など」をアップしました。

「源頼朝が詠んだ和歌10首と連歌など」
https://note.com/sz2020/n/nae5b8d2a98d7

 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第35回)「苦い盃」 において、源頼朝の和歌
  道すがら富士の煙も分かざりき 晴るゝ間も無き空の景色に
が紹介された。視聴者の反応は、
「源頼朝が和歌を詠んでいたとは知らなかった」
である。源頼朝が生涯何首の歌を詠んだのかは不明であるが、勅撰和歌集には「道すがら」の歌を含む10首が入集している。特に東海道の超有名な歌枕である「二村山」「浜名橋」には歌碑が建てられているので、皆さんご存知かと思ったが、そうでもないようである。(どちらも東海道の歌枕と言っても鎌倉時代の東海道「鎌倉街道」の歌枕であり、江戸時代の東海道を歩いても、これらの歌碑には出会わない。)

 さて、源頼朝の和歌が広まっていないのは、源実朝のように私家集がないことや、歴史学者が書いた源頼朝の本に和歌が出てこないからであろう。

 歴史学者は史書を読み、歌集は読まない。
 文学者は家集を読み、史書は読まない。

象牙の塔には「専門外の部屋には立入り禁止」という暗黙の不可侵条約があるようである。専門分野を超えて広く学ばない「専門馬鹿」が専門外の分野に立ち入ると、思わぬケアレスミスをする。『閑谷集』の「木高き花、風に散り」を「木高き花影に散り」と読んで論文に書き、それを『閑谷集』を読んでいないYou tuberが得意げに語って拡散する。恥の上塗りである。

歌には心が現れる。

  物いはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにも
               あはれなるかな親の子を思ふ (源実朝)

これは北条氏の「骨肉の争い」を詠んだのか?
話せない動物でも親は子を愛する。
人間は話せるから、愛を伝えられるから、骨肉の争いは起こらないはず。

さて、源頼朝の子・源実朝の歌の師は、歌が下手なことで有名な源仲章ではなく、トップ歌人の藤原定家であり、14歳で師事した。(初めて歌を詠んだのも14歳(元久2年(1205年)4月12日)の時だという。)

■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)4月12日」条
元久二年四月大十二日己亥。將軍家令詠十二首和歌給云々。

(元久2年(1205年)4月12日。将軍・源実朝は、12首の和歌を詠まれたそうだ。)

藤原定家からは『新古今和歌集』と『万葉集』が贈られた。『万葉集』の方が気に入ったようで、源実朝の歌は万葉調である。

  人丸ののちの歌よみは誰かあらん
            征夷大将軍みなもとの実朝 (正岡子規)

■正岡子規『歌よみに与ふる書』
 仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/2533_16281.html

北条政子「どの歌が好きですか?」
源実朝 「『道すがら』の歌です」
北条政子「なぜですか?」
源実朝 「読んで『万葉集』の『田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ 不尽の高嶺に雪は降りける』に似ていると思ったからです」

という会話がなされたかも?

 「道すがら」の歌の歌意は、三善康信入道善信が、「富士の噴煙も分からないくらい雲が多く、晴れ間もない」とし、北条政子が「富士の巻狩りの時の歌だ」と補足したが、実は上洛時の歌で、「鎌倉から京都へ上る道すがら」に読んだ歌である。今で言えば、「新幹線の車窓越しに外の景色をふと眺めたら富士山が見えたので1首」といった感じである。想像するに、家臣が「富士山に暗雲が立ち込めている。不吉だ」と言ったのを聞いて、「噴煙が見えない。富士山は噴煙を立てずに鎮まっているかのように見える。これは吉兆だ」と鼓舞した歌ではなかろうか。『万葉集』でいえば、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の感じの歌ではなかろうか。

 いい機会なので、源頼朝の歌を勅撰和歌集の掲載歌10首はもちろん、掲載されていない歌を含めてまとめ記事を書こうと思った。ダブってはいけないので、「源頼朝 和歌」でネット検索したら、驚くべきことに、源実朝の歌を源頼朝の歌として紹介している記事が複数ヒットした。おいおいである。

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