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『鎌倉殿の13人』47「ある朝敵、ある演説」再放送視聴

今回は、北条政子の演説に尽きますね。
「馬鹿にするな!」
が特に良かった。
 北条実衣の合いの手や、北条泰時の発破も良かった。(唯一の希望は、天照大神に指名された北条泰時である。)

■『吾妻鏡』「承久3年(1221年)3月22日」条
承久三年三月小廿二日丁未。波多野次郎朝定、爲二品使、進發伊勢大神宮。是、今曉有二品夢想、面二丈許之鏡、浮由比浦浪、其中有聲云。「吾是、大神宮也。天下〔於〕鑒〔留仁〕世大〔仁〕濫〔天〕兵〔於〕可徴。泰時、吾〔於〕瑩〔者〕太平〔於〕得〔牟〕」者。仍殊凝信心、朝定爲祠官外孫之間、故以應使節。

(波多野朝定が、二品(北条政子)の使者として伊勢神宮へ出発した。これは、今朝の夜明け、二品(北条政子)が夢を見て、2丈(約6m)もある鏡が由比ヶ浜に浮かび、そこから「私は大神宮(伊勢神宮の神・天照大神)である。天下をみるに、世は乱れて兵を徴集する事になるであろう。北条泰時が、私を大事にすれば、天下泰平になるであろう」と声がした。そこで特に信仰する事にした。波多野朝定は、神主の外孫なので、使節に選ばれた。)

 北条政子の演説は、『六代勝事記』(『吾妻鏡』のネタ本)、『吾妻鏡』、『承久記』に載っています。

『六代勝事記』では、「鎌倉が焼かれて、全てを失ってもよいのか」と御家人達に訴えています。『吾妻鏡』も似た内容ですが、鎌倉殿と御家人たちの関係(ご恩と奉公)を強調しての説得であり、小説やドラマのような演説ではありません。北条政子は御簾の中にいて、安達景盛(安達盛長の嫡男)が代読しています。

 『承久記』では、「北条義時追討の院宣」が下された御家人たちを北条政子が呼び、「北条義時を討って、これ以上、私を悲しませるな。院宣に従って朝廷側について官軍となるか、鎌倉側について朝敵となるか、どっちだ」と問うと、(源実朝殺害の時には、1番早く殺害現場に駆けつけた)忠臣・武田信光が、「朝廷側にはつかない」と答え、皆、同意したとあります。

■『六代勝事記』
 二品禅尼、有勢(うせい)の武士を庭中に召あつめて語らひて曰く、
「各々、心を一にして聞べし。 是は最後の詞也。故・大将家、伊豫入道、八幡太郎の跡を継ぎて東夷をはぐくむに、田園身をやすくし、官位心に任する事、重恩すでに須彌よりも高し。報謝の恩、大海より も深かるべし。朝威を忝(かたじけな)くする事は、将軍四代の今に露塵あやまる事なきを、不忠の讒臣、天のせめをはからず、非義の武芸に誇りて、追討の宣旨を申し下せ り。汝はからずや。男をばしかしながら殺し、女をば皆やつ如し。神社、仏寺、塵、灰となり。名将のふしどころ、畠にすかれ、東漸の仏法、半(なか)ばにして滅びん事を。恩を知り、名を惜しまむ人、秀康、胤義を召し捕りて、家を失はず、名を立てん事を思はずや」と。
 是を聞く輩(ともがら)、涙に咽(むせ)びて返事を申すに委(くは)しからず。只、軽き命を重き恩にかへん事、ふた心なし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879706/200

お前は想像できないのか? 男は皆殺し、女は皆奴隷になるのだぞ。寺社は焼かれて灰燼に帰し、東まで伝わってきた仏教は、その志なかばで滅亡するのだぞ。源頼朝の恩を知り、家名が失われるのを惜しむ者は、家を失わず、名を立てようと思うはずである。

■『吾妻鏡』
相州、武州、前大官令禪門、前武州以下群集。二品招家人等於簾下、以秋田城介景盛、示含曰。

相模守・北条時房、武蔵守・北条泰時、大官令入道・大江広元、前武蔵守・足利義氏らが集まった。二位(北条政子)は、御家人達を御簾の前に招き、安達景盛に言わせた。

■『承久記』
武田、小笠原、小山左衛門、宇都宮入道、長沼五郎、武蔵前司義氏、此の人々、参り給ふ。二位殿、仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞き玉へ。尼、加様(かよう)に若きより物思ふ者候はじ。一番には姫御前に後(おく)れまいらせ、二番には大将殿に後れ奉り、其の後、又、打ちつづき左衛門督殿(頼家)に後れ申し、又、程無く右大臣殿(実朝)に後れ奉る。四度の思いは已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫、打たれなば、五の思ひに成ぬべし。「女人五障」とは、是を申すべき哉覧(やらん)。殿原は、都に召し上げられて、内裏大番をつとめ、降りにも照りにも大庭に鋪皮(しきがわ)布(し)き、三年が間、住所(すむところ)を思ひ遣り、妻子を恋と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申し上げてましましし。去(され)ば、殿原は、京方に付き、鎌倉を責め給ふ、大将殿、大臣殿二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩蒙りてまします殿原、弓矢の冥加は、ましましなんや。かく申す尼などが、深山(みやま)に遁世して流さん涙をば、不便(ひぶん)とは思し食めすまじきか。殿原。尼は若くより物をきぶく申す者にて候ぞ。京方に付きて鎌倉を責めん共、鎌倉に付きて京方を責めん共、有りのままに仰せられよ。殿原」とこそ、宣べ玉ひけれ。武田六郎信光、進み出て申しけるは、「昔より四十八人の大名、高家は、源氏七代まで守らんと契り申して候ければ、今更、誰かは変改申し候べき。四十八人の大名、高家をば、二位殿の御方人と思し食せ」とぞ申したる。此の信光が詞(ことば)に、残りの人々、皆、同じにけり。異儀を申す人、一人もなかりけり。二位殿、悦びて、重ねて仰せらる様、「さらば殿原、権大夫が侍にて、軍の会議を始め給へ」とぞ仰せられける。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441747/189

 後鳥羽上皇が、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の8人に「北条義時追討の院宣」を下したことを知った北条政子は、彼らを呼んで、こう質問した。
「私は、若い頃から悲しみが絶えませんでした。姫御前(長女・大姫)、大将殿(夫・源頼朝)、左衛門督殿(長男・源頼家)、右大臣殿(次男・源実朝)の4人に先立たれ、今度、権大夫(弟・北条義時)が討たれれば、5度目の悲しみとなります。
 さて、皆さんは、雨が降る日も、日が照る日も、都の内裏の大番役を3年間、家を離れ、妻子と離れて務めてきましたね。それを右大臣殿(源実朝)が朝廷と交渉して軽くしてくれました。ですから、今、皆さんが、京方について鎌倉を攻めることは、大将殿(源頼朝)と右大臣殿(源実朝)の墓所を馬に蹴らせるようなもの。御恩を受けた者がすることではありません。
 こう言う私が、5つの悲しみにより、山深く隠棲して、流す涙を不憫だとは思いませんか。
 皆、京方につくか、鎌倉方につくか、有りのままに仰せられよ、皆さん」


「演出の仕事はステージングです」(by チーフ演出・吉田照幸監督)

北条政子の演説の撮影には2パターンあったという。
パターンA:北条政子が「そこは私の席だ」と北条義時をどかし、全御家人を見て話す「シアタースタイル」(壇上で演説して観客が聞く)。
 ・北条政子は、全員を見て話ができる。
 ・北条政子は部屋の一番奥。暗くて御家人からはよく見えない。
 (北条政子は天照大神なので、光輝いていないと。)
 ・北条政子を見ると、横の北条義時の惨めな姿が目に入ってしまう。
 ・北条政子の声が、遠くの御家人には届きにくい。
パターンB:北条政子が全御家人の中央で話す「円形劇場スタイル」。(中央で演説して、観客が360度、取り囲んで聞く)。
 ・濡れ縁の反射で北条政子がよく見える。
 ・北条政子の声が全員に届く。
 ・北条政子はあちこち見ながら話すので、カメラワークが重要。

「Aだと義時が晒し者みたいになってしまいますし、そんな義時を横にして政子の感情がストレートに出るかなと思っていましたが、両方試してみて、小池さんもBでいきたいと。Bだと政子は前後左右に訴え掛けることになりますし、義時も誰の目も意識せず政子の言葉に耳を傾けられます。本番は、あらゆる御家人に政子の気持ちを一気にパーンと出してくれ、サブ(副調整室)にいた僕もその場にいるようでした。まさにこれがライブ。視聴者の方もその場で聞いてるような臨場感をお届けできると確信してます」(by チーフ演出・吉田照幸監督)


今回、突然、源頼茂が登場!


 さて、明日は、いよいよ最終回ですね。
 北条義時の死に方に興味があります。

『相棒』(恩師(男性)の書斎の毒物を見て、社は杉下に「毒殺は女性の・・・」と呟いた。)

 北条義時の死因の通説は、病死(『吾妻鏡』)。他には、近侍(トウ?)が殺害(『保暦間記』)。個人的には伊賀の方による毒殺(『明月記』)かと。今までの流れだと、『鎌倉殿の13人』では複数説の採用でしょうね。北条義時が病気になり、伊賀の方が薬を与えて亡くなる。結果的に、病死なのか、毒殺なのか分からなくするでしょう。

 サブタイトル「報いの時」の意味は?
①悪いことをしてきた報いで、不幸な死に方をした。
②今までやってきたことが報われて、幸福な死に方をした。
どっち?

個人的要望は①で、「妻に冷たくしていた報いで、妻に毒殺された」であって欲しいな。本郷和人先生は「当時、日本には即効性の毒薬は存在していなかった」と主張されますが、『鎌倉殿の13人』では毒薬使用の前例があります。北条政範の毒殺で使用された毒薬は小瓶に入れられ、コルクで栓がしてありました。当時の日本にコルクはありませんので、明らかに輸入品です。つまり、本郷和人先生がおっしゃるように、当時の日本に即効性の毒薬が存在していなくても、輸入すれば毒殺は可能なのです。
 また、毒薬は存在していたかもしれません。後に尊長は「早く首を斬れ。できないのであれば、義時の妻が義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と言っています。尊長は「飲めば死ぬ薬」の存在を知っていたと言うことです。当時の日本に即効性の毒薬があることを皆が知っていれば、尊長は「毒薬を飲ませて早く殺せ」と言うでしょうし、その毒薬が、ブスの語源となった附子(トリカブト)であれば、「附子を飲ませて早く殺せ」と、毒薬名を使って言うはずです。どちらでもなく、「義時妻、義時にくれけむ」とまわりくどい言い方をしたのは、「当時の日本に即効性の毒薬はあるものの、伊賀家に代々伝わる製法が秘伝の毒薬で広まっておらず、名前がない(伊賀家の人間しか名前を知らない)からだ」とも考えられます。



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