『鎌倉殿の13人』47「ある朝敵、ある演説」再放送視聴
今回は、北条政子の演説に尽きますね。
「馬鹿にするな!」
が特に良かった。
北条実衣の合いの手や、北条泰時の発破も良かった。(唯一の希望は、天照大神に指名された北条泰時である。)
北条政子の演説は、『六代勝事記』(『吾妻鏡』のネタ本)、『吾妻鏡』、『承久記』に載っています。
『六代勝事記』では、「鎌倉が焼かれて、全てを失ってもよいのか」と御家人達に訴えています。『吾妻鏡』も似た内容ですが、鎌倉殿と御家人たちの関係(ご恩と奉公)を強調しての説得であり、小説やドラマのような演説ではありません。北条政子は御簾の中にいて、安達景盛(安達盛長の嫡男)が代読しています。
『承久記』では、「北条義時追討の院宣」が下された御家人たちを北条政子が呼び、「北条義時を討って、これ以上、私を悲しませるな。院宣に従って朝廷側について官軍となるか、鎌倉側について朝敵となるか、どっちだ」と問うと、(源実朝殺害の時には、1番早く殺害現場に駆けつけた)忠臣・武田信光が、「朝廷側にはつかない」と答え、皆、同意したとあります。
お前は想像できないのか? 男は皆殺し、女は皆奴隷になるのだぞ。寺社は焼かれて灰燼に帰し、東まで伝わってきた仏教は、その志なかばで滅亡するのだぞ。源頼朝の恩を知り、家名が失われるのを惜しむ者は、家を失わず、名を立てようと思うはずである。
相模守・北条時房、武蔵守・北条泰時、大官令入道・大江広元、前武蔵守・足利義氏らが集まった。二位(北条政子)は、御家人達を御簾の前に招き、安達景盛に言わせた。
後鳥羽上皇が、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の8人に「北条義時追討の院宣」を下したことを知った北条政子は、彼らを呼んで、こう質問した。
「私は、若い頃から悲しみが絶えませんでした。姫御前(長女・大姫)、大将殿(夫・源頼朝)、左衛門督殿(長男・源頼家)、右大臣殿(次男・源実朝)の4人に先立たれ、今度、権大夫(弟・北条義時)が討たれれば、5度目の悲しみとなります。
さて、皆さんは、雨が降る日も、日が照る日も、都の内裏の大番役を3年間、家を離れ、妻子と離れて務めてきましたね。それを右大臣殿(源実朝)が朝廷と交渉して軽くしてくれました。ですから、今、皆さんが、京方について鎌倉を攻めることは、大将殿(源頼朝)と右大臣殿(源実朝)の墓所を馬に蹴らせるようなもの。御恩を受けた者がすることではありません。
こう言う私が、5つの悲しみにより、山深く隠棲して、流す涙を不憫だとは思いませんか。
皆、京方につくか、鎌倉方につくか、有りのままに仰せられよ、皆さん」
「演出の仕事はステージングです」(by チーフ演出・吉田照幸監督)
北条政子の演説の撮影には2パターンあったという。
・パターンA:北条政子が「そこは私の席だ」と北条義時をどかし、全御家人を見て話す「シアタースタイル」(壇上で演説して観客が聞く)。
・北条政子は、全員を見て話ができる。
・北条政子は部屋の一番奥。暗くて御家人からはよく見えない。
(北条政子は天照大神なので、光輝いていないと。)
・北条政子を見ると、横の北条義時の惨めな姿が目に入ってしまう。
・北条政子の声が、遠くの御家人には届きにくい。
・パターンB:北条政子が全御家人の中央で話す「円形劇場スタイル」。(中央で演説して、観客が360度、取り囲んで聞く)。
・濡れ縁の反射で北条政子がよく見える。
・北条政子の声が全員に届く。
・北条政子はあちこち見ながら話すので、カメラワークが重要。
「Aだと義時が晒し者みたいになってしまいますし、そんな義時を横にして政子の感情がストレートに出るかなと思っていましたが、両方試してみて、小池さんもBでいきたいと。Bだと政子は前後左右に訴え掛けることになりますし、義時も誰の目も意識せず政子の言葉に耳を傾けられます。本番は、あらゆる御家人に政子の気持ちを一気にパーンと出してくれ、サブ(副調整室)にいた僕もその場にいるようでした。まさにこれがライブ。視聴者の方もその場で聞いてるような臨場感をお届けできると確信してます」(by チーフ演出・吉田照幸監督)
今回、突然、源頼茂が登場!
さて、明日は、いよいよ最終回ですね。
北条義時の死に方に興味があります。
北条義時の死因の通説は、病死(『吾妻鏡』)。他には、近侍(トウ?)が殺害(『保暦間記』)。個人的には伊賀の方による毒殺(『明月記』)かと。今までの流れだと、『鎌倉殿の13人』では複数説の採用でしょうね。北条義時が病気になり、伊賀の方が薬を与えて亡くなる。結果的に、病死なのか、毒殺なのか分からなくするでしょう。
サブタイトル「報いの時」の意味は?
①悪いことをしてきた報いで、不幸な死に方をした。
②今までやってきたことが報われて、幸福な死に方をした。
どっち?
個人的要望は①で、「妻に冷たくしていた報いで、妻に毒殺された」であって欲しいな。本郷和人先生は「当時、日本には即効性の毒薬は存在していなかった」と主張されますが、『鎌倉殿の13人』では毒薬使用の前例があります。北条政範の毒殺で使用された毒薬は小瓶に入れられ、コルクで栓がしてありました。当時の日本にコルクはありませんので、明らかに輸入品です。つまり、本郷和人先生がおっしゃるように、当時の日本に即効性の毒薬が存在していなくても、輸入すれば毒殺は可能なのです。
また、毒薬は存在していたかもしれません。後に尊長は「早く首を斬れ。できないのであれば、義時の妻が義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と言っています。尊長は「飲めば死ぬ薬」の存在を知っていたと言うことです。当時の日本に即効性の毒薬があることを皆が知っていれば、尊長は「毒薬を飲ませて早く殺せ」と言うでしょうし、その毒薬が、ブスの語源となった附子(トリカブト)であれば、「附子を飲ませて早く殺せ」と、毒薬名を使って言うはずです。どちらでもなく、「義時妻、義時にくれけむ薬」とまわりくどい言い方をしたのは、「当時の日本に即効性の毒薬はあるものの、伊賀家に代々伝わる製法が秘伝の毒薬で広まっておらず、名前がない(伊賀家の人間しか名前を知らない)からだ」とも考えられます。
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