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三河国から遠江国へ(3/3)大神神社

 三河国と遠江国の国境は赤石山脈である。石巻山を含む赤石山脈の南端を、三河人は「弓張山脈」、遠江人は「湖西連峰」と呼ぶ。「湖西」とは、「遠江」の由来となった浜名湖の西という意味である。(京から近い「近江」の由来は琵琶湖である。)

 赤石山脈を越えて遠江国浜名郡に入ると、三輪氏の式内・大神神社と式内・弥和山神社があった。

【『延喜式』-遠江国浜名郡の式内社-】
・弥和山神社 ミワヤマノ 小
・英多神社 エタノ 小
・猪鼻湖神社 ヰハナノ 小
・大神神社 オオムワノ 小
・角避比古神社 ツノサクヒコノ 名神大

 この式内・大神神社と式内・弥和山神社の鎮座地は不明である。「全く分からない」のではなく、候補(論社)が多すぎて、1つに決められないのである。或る人が、
「大神神社は三輪山と、石巻神社は石巻山とセットである。セットになる山を探せばいいのではないか?」
と言っておられるが、山があるとは限らない。たとえば、尾張国一宮・大神神社には山がない。山がなくても杉の木を3本植えればOKなのである。
「『延喜式』の神社の掲載順は北からなので、弥和山神社は英多神社の北、大神神社は角避比古神社の北にあった」
という意見もある。

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「英多」は『延喜式』には「えた」とあるが、「あがた」の間違いで、浜名県(はまなのあがた)が置かれた場所(現在の三ヶ日町)の神社である。英多神社は、伊勢神宮領になると小祠にされ、鎮座地には濱名總社神明宮(神主は、浜名県主である縣氏が代々務めていた)が建てられた。

 境内に「太田神社」があり、祭神・太田命は大神神社の初代神主・大田田根子だとする説もあるが、大田田根子は多氏の祖であり、大田/田根子ではなく、大/田田根子である。濱名總社神明宮は元伊勢の1つで、倭姫命が40日間滞在し、太田命(伊勢国の猿田彦命の後裔)の案内で伊勢国へ向かったとされる。

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 濱名總社神明宮(旧・英多神社)の北にあるのが、宮山の只木神明宮である。「宮(みや)山」は「弥和(みわ)山」の転訛だという。

 裏の石灰岩採石場「三ヶ日人只木遺跡 」から「三ヶ日人」(約9000年前の縄文時代の人)の人骨が出土している。

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 角避比古神社は、天災により、浜名川の河口(帯ノ湊)→今切湊→源太山と遷座したが、『延喜式』当時の角避比古神社は、浜名川の河口にあった。その北にあるのが、遠江国二宮・二宮神社である。

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 式内・大神神社(「大神」は『延喜式』には「おおむわ」とあるが、「おおみわ」の間違い。吉田家のお墨付きを得て「二宮」と改称)の神主は、愛知大学地域政策学部の渡辺和敏教授である。ご専門は日本近世史であるが、本人の意に反して日本交通史の権威である。(地元の新居宿について研究していたら、日本交通史の権威者に押し上げられてしまったという。)
http://regional-policy.aichi-u.ac.jp/teacher/post_22.html

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「遠州七不思議」の1つ「飛び神さま」は、大和国から鳥がくわえて運んで来たという多数の勾玉である。「子持ち勾玉」の箱の蓋(上の写真の中央上)に「大神神社」と書かれているので、二宮神社が式内・大神神社で間違いない」という。ともあれ、現在の二宮神社は、松田城の城主の居館跡にあり、『延喜式』時代の大神神社は、白須賀神明宮になったとされる。

【まとめ】三輪氏は東国との境を守る武装集団であったようで、東国との境の南北に長い赤石山脈の東麓と西麓に配置された。(『万葉集』の「東歌」に出てくる地名は、浜名湖以東である。ということは、万葉時代の「東国」は浜名湖以東なのだろう。)尾張国一宮・大神神社(愛知県一宮市花池)→式内・大神神社(静岡県湖西市新居町)→式内・大神神社(静岡県藤枝市岡部町三輪字杉本)と、大神神社が東へ、東へと建てられていったことは、大和政権の勢力範囲が東へ、東へと延びていったことを示している。(最終的に「東国」は、足柄峠以東(相模国以東)となった。)

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