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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第2回)「佐殿の腹」


   平家を恐れる伊東と、
   それに抗う北条。

   坂東の片隅で起きた、
   一族同士の
   ささいな諍いがやがて…。

   義時の運命が動き出す。


1.「大いなる小競り合い」の結末


 福原(現在の神戸氏)で、平相国清盛(松平健)の子・平宗盛(小泉孝太郎)が、平相国清盛に伊豆国の事件を報告するが、平相国清盛は、なんと、なんと源頼朝の存在を忘れており、
「いちいちそんなつまらんことを、わしの耳に入れるな」
と言った。平相国清盛は福原(北条時政は結婚)のことで頭が一杯のようである。
「東国の不始末は東国の者にかたをつけせよ」
と指示した。

 その頃、伊豆国では、罪人・佐殿(源頼朝)を殺そうと、爺様(伊東祐親)が30人程の兵を率いて北条館に迫っていた。主人公・小四郎(北条義時)の父・四郎(北条時政。当時の兵数は30人弱)は、「罪人・佐殿を渡さない」と譲らない。
 そこに、平清盛の「私郎従」といわれ、相模国の武士団を束ねて1万人の兵を動かせるという大庭景親(國村隼)が現れた。爺様(伊東祐親)の娘婿・三浦清澄が両者の戦いを避けるために大庭景親のに仲裁を頼んだのだという。

 前回、三浦義村は、父・三浦清澄に佐殿(源頼朝)が北条館にいることをばらした。このままでは、
・罪人・佐殿(源頼朝)に逃げられた爺様(伊東祐親)は処罰される。
・罪人・佐殿(源頼朝)を匿った四郎(北条時政)も処罰される。
そこで、三浦義村が考えた策は、大庭景親による仲介であった。
大庭景親は、
・罪人・佐殿(源頼朝)は北条家が預かる。
(罪人に「逃げられた」「匿った」のではなく「移管」として処理する。)
・罪人・佐殿(源頼朝)と伊東八重の縁は切る。
という起請文(誓約書)を書かせることで紛争を収め、「そう平相国清盛に報告して認めさせる」とした。(図らずも「東国の不始末は東国の者にかたをつけせよ」という平相国清盛の意に沿う形となった。)
 こうして移管を認められた罪人・佐殿(源頼朝)は北条館に堂々と入り、伊東八重は、佐殿(源頼朝)と縁を切らせるため、伊東祐親の家人・江間次郎(芹澤興人)と結婚させられた。

(1)伊東八重の子・千鶴丸


▼前回の描写

・北条義時が源頼朝の手紙を持って伊東館へ行く。
・北条義時は、伊東館の伊東祐清に「手紙を八重に渡して」と頼むと、「別の用事(千鶴丸の暗殺を依頼された件)で頭が一杯なので、直接渡して」と断られた。
・北条義時が、八重の部屋へ行く途中、伊東祐清の部屋へ入っていく善児とすれ違った。
・北条義時は、八重の部屋の前の江間次郎に取次ぎを願う。
・北条義時が八重の部屋に入ると、千鶴丸が馬を作っていた。
・八重は千鶴丸を「江間次郎と遊べ」と部屋から出した。
・外で乗馬遊びをする千鶴丸に、善児は「川で魚をとろう」と誘った。
 (源頼朝によれば、千鶴丸は人懐っこくて誰にでもついて行くという。)
・北条義時は伊東館からの帰路、伊東祐清の部屋へ入った善児が千鶴丸の着物を持っているのを見て、殺されたと悟った。(北条義時は善児を問い詰めることなく、北条館へ帰った。千鶴丸の着物を脱がせたのは、水死体が浮かんでも、身元が分からないようにするためであろう。北条義時の姿を見た善児が着物を隠さなかったのは、北条義時に着物を見せるためではなく、北条義時が外で遊んでいた千鶴丸とは会っていないと思い込み、着物を見ても、「さっきまで千鶴丸が着ていた着物だ」と分からないと思ったのであろう。)
▼後日譚
・『鎌倉殿の13人』では、伊東祐親は、八重に、「千鶴丸を殺した」とは言わず、「伊豆山神社に預けた(平氏に見つかって殺される前に、出家させて命を救った)」と説明した。
・伊豆半島の東岸、静岡県伊東市の伝承では、千鶴丸の水死体は宇根海岸に流着し、漁師の甚之右衛門が発見して、産衣石の下に埋めたという。八重が建てた千鶴丸の菩提寺は最誓寺である。

(2)江間次郎


 『鎌倉殿の13人』の配役が発表され、地元・伊東市では「伊東八重姫が出る! しかもガッキー!」と沸いたが、伊東市では「伊東八重姫は入水自殺した」と伝えられており、「どうせちょい役で1回出るだけでしょ」と市民は思っていた。ところが、ところが、『鎌倉殿の13人』では時代考証・坂井孝一氏の八重姫=阿波局説が採用され、長期間、登場する。
 ちなみに、伊東八重姫生存説とは、「八重姫は、江間次郎(四郎とも)と結婚させられて、江間小四郎を生んだ」というものである。

・伊東市の伝承:治承4年(1180年)7月16日、古川の真珠ヶ淵で入水自殺
・伊東八重姫生存説:江間次郎と結婚させられて、江間小四郎を生む。
・『鎌倉殿の13人』(坂井孝一説):八重姫=阿波局(北条義時の側室)

《『鎌倉殿の13人』の伊東家系図》---------------------------------------------

伊東祐家┬嫡養子:伊東(旧・工藤)祐継【死亡】━工藤(旧・伊東)祐経
    └伊東祐親┬長男:河津三郎祐泰━曽我兄弟(母は満江御前)
         ├次男:伊東九郎祐清
         ├長女:北条四郎時政正室【死亡】━北条義時(13歳)
         ├次女:三浦新介義澄正室
         ├三女:万劫御前(工藤祐経室→土肥遠平室)
         └四女:八重姫━千鶴丸(3歳→【死亡】)

 思春期の少年は、メスガキ(同級生の少女)ではなく、20歳くらいのお姉さんに憧れるという。北条義時(13歳)も例外ではなく、叔母(母の妹)・八重姫に憧れていた。八重姫の生年は不明である。多分、1147年生まれの源頼朝(29歳)の少し下(年齢不明の姉・万劫御前の結婚相手の工藤祐経が源頼朝と同じ1147年生まれであることからしても、八重姫は1151年生まれの25歳位か?)で、1回り(12年)年下の13歳のガキ(思春期の少年)である甥は、結婚相手としては眼中に無く、プロポーズされても笑って断るであろう。(「13歳のガキ」とはいえ、「義時」という名があるので、元服した大人ではある。「義」の1字は、元服に際し、叔母・三浦義澄正室に頼んで、三浦氏の通字「義」を拝領したという。弱小の田舎侍・北条氏としては、三浦氏は憧れの的である。三浦義明か三浦義澄に烏帽子親を頼んだのかもしれない。)
 「源頼朝は伊東館から北条館へ移った」のではなく、「最初から北条館にいた。八重姫とのロマンスは伝説であって史実ではない」とする学者もいる。八重姫が、自分の家(伊東館)にいる御曹司(源頼朝)と恋仲になる事はありうるが、13歳の少年(北条義時)が、冠婚葬祭でしか会わないような遠くに住む叔母(八重姫)を大好きであり続けるだろうか?(最後に会ったのは3年前の祝宴だという。)
 10年前の3歳(満2歳)の時、野に咲くアジサイを八重姫に渡すというマセガキエピや、3年前の10歳の時、宴会(北条時政と伊東祐親の上洛の祝い)で微笑む八重姫をガン見して嫌がられるというエピは微笑ましいが、「大好きな人の事は何でも知りたい」「誰よりも早く知りたい」と注意しているはずなのに、三浦義村に「子供が出来た」と聞いて驚くようでは・・・そして、その子はもう3歳になるというのに知らなかったとはありえない。

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2.佐殿の腹


さて、タイトルの「佐殿の腹」とは、「佐殿の本音」ということである。
「佐殿の本音」には、
・北条政子に話した「佐殿の本音」
・北条義時に話した「佐殿の本音」
の2つがある。

(1)北条政子に話した「佐殿の本音」

《源頼朝略年表》-----------------------------------------------------------------
1147年 1歳 鬼武丸、生まれる。
1158年  12歳 元服? 左馬頭に任ぜられる。
1159年  13歳 右兵衛権佐に任ぜられる。
1160年  14歳 伊豆国へ配流される。
1167年  21歳 寒河尼の娘と結ばれ、一万丸(後の結城朝光)生まれる。
1172年  26歳 伊東八重と結ばれる。
1173年  27歳 千鶴丸(1歳)生まれる。
1175年  29歳 千鶴丸(3歳)殺される。伊東八重と別れさせられる。

 1160年、伊豆国へ配流された佐殿は、「数年で許されるだろう」と思っていたかもしれない。ところが10年経って24歳になっても許されず、配流先の伊豆国にいた。人生50年とすると、半分が終わってしまったことになる。(流罪は無期懲役ではなく、いつかは許される。なぜ源頼朝が許されなかったのか不明だが、今回の番組冒頭を見る限りでは、「流罪にしたことを忘れていた」からでしょうね。)
━━残された時は短い。
 この時、「佐殿の腹」は、「許されて京都に戻る夢はあきらめ、伊豆国の豪族の娘と結婚して土着しよう」に変わったのかもしれない。しかし、伊東氏はそれを認めず、長男・千鶴丸を殺され、伊東八重とは別れさせられた。一族を殺され、10年以上も軟禁されていると、「後ろ盾や家族が欲しい」と思うものであろう。

※「平治の乱」後の逃避行で、父とはぐれてしまった。父はたどり着いた野間で殺されたわけで、結果的にははぐれたのが良かった。『鎌倉殿の13人』では、雪の中を1人で歩いていたが、実際には馬に乗って居眠りしていたのではぐれたという。なお、最期は落馬で落命したという。

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 「後ろ盾」として、溺れる佐殿が次につかんだ藁は北条氏であった。弟・北条義時は、姉・北条政子に、「本気であれば八重さんの事を話すはず」と言ったが、佐殿は、北条政子を三島明神(伊豆国一宮・三嶋大社)に誘い(伝承では「伊豆山神社」かと思うが、伊豆山は女人禁制であったので、三嶋大社に変更?)、伊東八重のことを北条政子に話した。北条政子は、先の弟・北条義時の言葉もあり、「この人、本気」と思ったことであろう。

「私なりに佐殿をお支えしとうございます」(北条政子)

★「関八州総鎮護 伊豆山神社」公式サイト
伊豆山から富士山につながる修行の道は、そののち平治の乱によって伊豆国に配流された源頼朝が、北条政子とともに当社に深い信仰を寄せ、当社の加護のもとで平家を打倒し、鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞台になります。鎌倉将軍の参詣で二所詣の聖地となった当社は、威光を輝かし、格別の尊崇を集め、戦国時代には後北条氏、江戸時代には徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓いを立てるときの起請文には、誓詞証明の社として、当社の名が必ず連ねられています。
・腰掛石
源頼朝と北条政子が腰掛け、愛を語らったといわれる石です。
https://izusanjinjya.jp/
https://izusanjinjya.jp/info/806542

 伊東市の伝承は「伊東八重姫は、佐殿の事が忘れられず、伊東館を7人の侍女と共に抜け出して北条館へ会いに行くと、娘・大姫を抱いて妻・北条政子と楽しそうにしている佐殿の姿を見て、治承4年(1180年)7月16日、真珠院の前を流れる古川の真珠ヶ淵で入水自殺し、7人の侍女は大仁田中山で自害した」であるが、『鎌倉殿の13人』では、「伊東八重は、比企館で佐殿に会えず、北条政子が伊東館へ行くと、伊東八重は、北条政子に佐殿のトリセツを教え、江間次郎と結婚した」。

「伊東から北条へ乗り換えたということか。何もかも。思いを断ち切ることはできぬ。しかし、断ち切るようには努めます」(伊東八重)

▼源頼朝の兄弟

源義朝┬長男・鎌倉悪源太義平(母:遠江国橋本宿の白拍子?)【死亡】
   ├次男・朝長     (母:典膳大夫中原久経の娘)【死亡】
   ├三男・「佐殿」頼朝 (母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   ├四男・義門     (母:?):早逝したので詳細不明【死亡】
   ├五男・土佐冠者希義 (母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   ├六男・蒲冠者範頼  (母:遠江国池田宿の白拍子)
   ├七男・今若→全成  (母:常盤御前):醍醐寺→阿波局の夫
   ├八男・乙若→義円  (母:常盤御前):八条宮円恵法親王の坊官
   └九男・牛若→九郎義経(母:常盤御前):鞍馬寺→奥州平泉

※長男・源義平:逃走中、石山寺で捕縛されて斬首。享年20。
※次男・源朝長:逃走中、傷が悪化して父に首を刎ねてもらった。享年17。
※三男・源頼朝:逃走中、吹雪の中で父とはぐれて逮捕され、伊豆国配流。
※四男・源義門:早世したので詳細不明。元服はしたらしい。

▼伊豆国流刑時代の源頼朝の保護者

・監視者(伊豆国):伊東氏→北条氏
比企尼比企):源頼朝の乳母(めのと)。源頼朝は養君(ようくん)。
 ※源頼朝の側近・安達盛長(比企尼の娘婿)を送り込む。
 ※源頼朝の乳母の人数は不明。明らかになっているのは4人。
  摩々尼(ままのあま)、寒河尼(さむかわのあま)、比企尼、山内尼
三善康信(京都):母は源頼朝の乳母の妹
 ※月に3回、源頼朝に京都の情勢を報告していた。
祐範(熱田):熱田大宮司の子。母方の叔父。毎月使者を送った。

(2)北条義時に話した「佐殿の本音」

 流人(徳川家康で言えば人質)としての生活が長いと、
・人を信じられない。→本心を語れない。
(用心深い)    →人間観察が得意になる。
          →とはいえ、心の支え(身内)が欲しい。
となるであろうか。
 新しい「後ろ盾」の北条ファミリーを観察すると、

・北条時政:いいかげんだが、一度決めた事は実行する。
・北条宗時:行動派で熱血漢たが、思慮深くない。
・北条政子:自分にぞっこんなので妻にする。
・北条義時:パシリではあるが、慎重で実直。
・北条実衣:異母弟・阿野全成の妻にする。

とまぁ、北条義時と仲良くするのが最もよさそうである。

北条義時「姉を、どうされるつもりですか。佐殿は、馬を換えるように、八重殿から姉に乗り移ろうとされている。 とても承服できません。姉を渡すわけにはいきません」
源頼朝「ふふふ。まこと、きょうだい思いの、よい弟よのぉ」
北条義時「出て行ってください。北条から」
源頼朝「伊豆に流されてきた時、わしは一人だった。藤九郎のように、身の回りの世話をしてくれる者はいる。比企尼のように、何かと気遣ってくれる者もいる。しかし、わしには身内がおらん。いざという時に力になってくれる後ろ盾がおらん。伊東の者たちが、そうなってくれることを望んだ。考えが甘かった。そこに北条が現れた。もう失敗は許されない。わしには時がない。わしは北条の婿となり、北条を後ろ盾として、悲願を成就させる。それゆえ、政子殿に近づいたのだ」
北条義時「悲願?」
源頼朝「お前だけには話しておく。いずれわしは挙兵する。都に攻め上り、憎き清盛の首をとり、この世を正す!」
北条義時「お待ちください!」
源頼朝「法皇様をお支えし、この世をあるべき姿に戻す! そのためには政子が、北条が欠かせぬのだ。よいな。事は慎重に運ばねばならぬ。この事は兄にも話すな。小四郎、お前はわしの、頼りになる、弟じゃ」
北条義時「ははっ!」


 心理学者が「車は女性。車を頻繁に変える男性は、恋人を頻繁に変えるドンファンである」と言っていたが、当時は「馬は・・・」と言い換えてもいいのだろうか? 源頼朝に言わせれば「馬を牛に乗り換える」(速い馬から、のろい牛に乗り換える。すぐれたもの(裕福な伊東家)を捨てて、悪いもの(貧乏な北条家)に取り換えるたとえ)だろうけどね。

 「お父さん!」と言って「まだお父さんじゃない! 娘はお前にゃやらん」というコントはよくあるが、今回、「義弟じゃ」と言われた北条義時は「いや、まだあなたは姉とは結婚してないけど・・・」とつっこまなかった。『鎌倉殿の13人』は喜劇ではなく、時代劇らしい。
 それはさておき、前回「平氏を滅ぼして源氏に替える意味は? 今の生活に不満はない」と言っていた北条義時が、なぜ源頼朝の挙兵に賛同したのか?
多分、伊東に行く道で堤信遠に逢い、下馬して礼をつくしたが、庶民以下の扱い(庶民が写っていたが、立ってお辞儀をしていただけ)で、土下座を強要されたからであろう。あの時の屈辱、土の匂いは一生忘れないであろう。

※当時の海岸線は知らないが、土肥氏館(神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目)は海岸から離れている。湯河原温泉はもっと海岸から離れている。
※源頼朝の父親は、風呂場で殺されている。「一緒に風呂に入る」は信用のあかし。なお、2代将軍・源頼家(源頼朝の子)も風呂場で殺された。

★『曽我物語』に見る「伊東氏と北条氏の差」
https://note.com/sz2020/n/n7c48eb2e0305



★呉座勇一 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第2話「仲が悪いけど実は〇〇〇!?伊東祐親と工藤祐経の複雑すぎる関係」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91348

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①大江広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆) 
⑤梶原景時(中村獅童) 
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)=比企尼から送り込まれた源頼朝の従者
⑧八田知家(?)    
⑨比企能員(佐藤二朗)=源頼朝と八重を館で会わせようとするが失敗
⑩北条時政(坂東彌十郎)=主人公と北条政子の父
⑪北条義時(小栗旬)=主人公(北条時政の次男)。弟枠認定。
⑫三浦義澄(佐藤B作)=伊東祐親と北条義時の争いの仲裁を依頼
⑬和田義盛(横田栄司)

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

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