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Reco旅 -新居⑦レポに出てくる地名-

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静岡県湖西市新居町は、
中之郷(浜名郡家(郡衙)所在地)
新居(東海道の新居宿)
内山
浜名橋本(鎌倉街道の橋本宿)+大倉戸新田+松山新田+松本新田
に分かれる。

大雑把に言って、417号線(旧・国道1号線)の北側の旧東海道線沿い(関所~棒の鼻)が新居宿で、新居宿の南の417号線沿いが橋本宿である。

今日から「Reco旅 -新居-」のレポをアップしていきます。
まずはレポに出てくる地名の解説をさせていただきます。
「地名の解説など、1枚の地図があれば十分だ」
と言われそうですが、当時の地図はありません。
下の地図は後世に描かれた想像図です。

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【浜名湖】 浜名湖は、「浜名郡の湖(うみ)」であり、北端の都田川から流れ込んだ水が南端の浜名川によって太平洋遠州灘)放出されていた。古代では、都から近い海(巨大湖)「近淡海」(琵琶湖)に対して「遠淡海(とほつあはうみ)」と呼ばれ、「遠江(とほたふみ)」という国号になった。巨大な淡海(淡水湖)であるが、現在の河川法では「都田川の巨大な淵」、漁業法では「海」(通称「浜名湾」)である。

【浜名川】 浜名川は、文学作品には「入江」「入海」とある。港として使われ、「帯湊(おびのみなと)」「猪鼻湖(いのはなのみなと)」と呼ばれていた。(「湖」は「うみ」とも「みなと」とも読む。式内・猪鼻湖神社については、上の絵図に「猪鼻子神社」とあるから「いのはなこ」読まれていたであろう)後に「安礼崎」がある「亥ノ鼻」(「鼻」とは半島状の突起)と、「日ヶ崎」(「東の崎」の意)がある「卯ノ鼻」を繋ぐ「浜名橋」が架けられた。

【猪鼻(いのはな)】 猪鼻駅家(後の橋本駅家)の周辺には人が集まって集落「猪鼻」(後の「橋本」)が形成された。これが『遠江国浜名郡輸租帳』の「駅家郷」である。この猪鼻に到る長くて緩い坂を「猪鼻坂」という。(猪鼻は「亥ノ鼻」だというが、「亥ノ端」かもしれない。)

<東海道の変遷>
①奈良~平安時代:高師山連山の北麓の緩やかで長い「猪鼻坂」。
②鎌倉時代:高師山連山の尾根の道。高師山から浜名橋を見て和歌を詠む。
③江戸時代:高師山連山の南麓の現「浜名街道」→急で短い潮見坂。

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【今切(いまぎれ)】 その後、明応7年(1498年)の「明応の大地震」により、山津波で浜名川の河口部は埋められ、新たな流出口「今切」(「今切口」とも)が出来、港も今切に移動して「今切湊」と呼ばれた。また、浜名湖には海水が入り込んで「汽水湖」となった。
 なお、東海道53次・白須賀宿は、津波で崩壊し、潮見坂を上った笠子原に移った。(上の絵図の「白須賀」は、正確には「元宿」である。)

■猪鼻坂

『更級日記』
 冬深くなりたれば、川風けはしく吹き上げつつ、堪へがたくおぼえけり。その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、下りし時は黒木を渡したりし、このたびは、あとだに見えねば舟にて渡る。入江に渡りし橋なり。外の海は、いといみじくあしく浪たかくて、入江のいたづらなる洲どもに、こと物もなく松原の茂れる中より、波の寄せかへるも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より波は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ、八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし。

(真冬になったので、北から南へ流れる天竜川を渡る冷たい北風が激しく吹き上げて、寒くて耐えられない。その天竜川を渡って浜名橋に着いた。浜名橋は、以前、下向した時は黒木(焼き杉の板のように、焼失や虫食い防止に表面を焼いて炭化させた丸太)製の橋を渡ったのだが、今回は、跡形もなく焼失していて、舟に乗って浜名川を渡る。ちなみに、浜名橋は、入江(浜名川の河口)に渡してあった橋である。外海(太平洋、遠州灘)は、たいそう荒くて波は高く、入江の殺風景な砂州に、松だけが茂っている松原の中から、波が寄せては返すのが、様々な色の玉のように見え、本当に宮城県の「末の松山」の歌「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」(清原元輔『百人一首』)にあるように、波が松の木を超えてしまうようにも見えて、たいへん趣深い。それ(浜名の渡し)の上(かみ。京都側。西)は、「猪鼻」という坂で、この何とも言えない侘しい坂を上れば、三河国の「高師の浜」(「高師の山」の誤り?)で、そのまた西の同じく三河国の「八橋」(『伊勢物語』の歌枕)は名が残るだけで、何も(8つの橋の跡も、かきつばたも)なく、何の見所も無い。)

『更級日記』に出てくる「猪鼻坂」には諸説ある。
①地元民が「猪鼻坂」と呼んでいる坂(上の絵図の緩やかで長い坂)
②新居・内山道(高師山と天神山の間の急で短い坂)
③歩行坂(勝坂、かちざか、かじざか)
④湖北の本坂越(姫街道)の本坂
 ①は、現在、東半分は宅地内にあって、ストレートで舗装されているが、西半分は山中の曲がりくねった細道で「えもいはずわびしき坂」である。(日の当たる山の南麓ではなく、日陰になる北麓の坂道であるので、「えもいはずわびしき坂」なのかもしれない。)「猪鼻坂」を上って、下ると、弘法大師が足を洗った清水が湧く「足洗田」(奈良時代の条里制の区画の田んぼ)がある平次ヶ谷であり、その先の双子塚(お経塚)がある「富士見」で(鎌倉街道での)富士山の見納めとなる。(東海道での富士山の見納めは潮見坂の「富士見の松」である。)そして、しばらく行くと、遠江国と三河国との国境「境川」に到る。越えれば東三河。「八橋」がある西三河は、まだまだ先である。
 『更級日記』の不思議は、「ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ」である。「境川」ではなく、「猪鼻坂」が遠江国と三河国との国境のように書かれているが、それはいいとして(いいのか?)、「坂を上ったら海」というのは変である。「坂を下ったら海」なら分かるが。ここで、『更級日記』に出てくる地名をみてみると、
①歌枕である有名な「浜名橋」はなくなっていた。
②猪鼻坂を上ると「高師の
③歌枕である有名な「八橋」(愛知県知立市)に見所は何もない。
とある。
──作者が知っている京都以外の地名は歌枕のみなのか? 
②は、
②(猪鼻坂を上ると)歌枕である有名な「高師の
の間違いだと思われる。

  音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ

この『百人一首』の祐子内親王の歌などで詠まれた歌枕「高師の浜」が思い出されて「やま」を「はま」と間違えたのであろう。ちなみに、歌枕「高師の浜」とは、大阪府堺市から高石市にかけての「高師浜」のことである。

■吉田東吾『大日本地名辞書』「猪鼻郷」
○今、白須賀町、並びに新居町の中なるべし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937058/331
■小谷野純一『更級日記全評釈』「猪鼻」
(前略)地理的には明瞭ではないけれども、例えば、『大日本地名辞書』などが、現在の湖西市白須賀、浜名郡新居町の内かとしているに関しては、ほぼ従ってよいものと考えられる。さて、当面の位置についてだが、(中略)「三河」との国境に近いかに思われるものの、(中略)具体的には不詳といわねばならない。
■玉井幸助『更級日記評解』「ゐのはな」
鎌倉時代に橋本の宿と称したものが、昔は猪鼻駅と称せられた。今の遠江浜名郡にある白須賀町か新居町かの中であろうという。その駅あたりが坂路になって、「いのはな坂」と称したのであろう。東海道名所図絵巻三に「荒井」を説明して「荒堰または新居とも書す。旧名猪鼻駅。大略今の荒井の北方坂路をさす」とある。
■津本信博『更級日記の研究』
(前略)ただ坂とあるのは、浜名湖北の一時東海道になった本坂があったというが、「えもいはずわびしき坂」といえば、白須坂の東南にある潮見坂あたりを指すのではないかとも考えられる。かなり急な坂で、遠州灘を一望することができる場所である。

■高師山


有名な歌枕。山頂から浜名橋を見下ろして和歌を詠む。(源実朝の歌は、浜名橋から高師山を見上げて詠んでる?)

  かへる波君にとのみぞことづてし浜名の橋の夕暮れの空(源頼朝)
  ながめつつ思ふもかなし帰る雁ゆくらんかたの夕暮の空(源実朝)
  雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山に鹿ぞ鳴くなる (源実朝)

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 高師山とは、三河国高蘆郡(渥美郡高足村周辺。現・豊橋市高師本郷町本郷周辺)の高師原という台地のことであったが、高師原の東の浜名橋を見下ろす橋本宿近くの山を指すようになった(羽田野敬雄の「高師山東遷説」)。

 「和名類聚鈔」の渥美郡6郷中の高芦(たかし)(多加之)は、渥美郡高足村とされる。ただ、古代の高芦郷の地は梅田川下流域のみではなく、広く太平洋岸に至る地をも包含し、鎌倉時代以後多数の村が分立して今日に至っている。(『豊橋百科事典』)

 現在、「高師山(広義)」は、東から愛宕山天神山高師山(狭義。「本学寺山」「本覚寺山」とも。本学寺/本覚寺の通称が紅葉寺)、酉(とり)の山諏訪山の連山(学問的には「天伯原の南東端」)を指す。私は勝手に「高師連山」と呼んでいる。(「高師連山」は私の造語。地元では、この連山を「高師山(広義)」とか「裏の山」と呼んでいる。)

高師は浜名郡にて白須賀と荒井との間、大道より北なる山を云ふ。(賀茂真淵『岡部日記』)

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 「天伯原」とは「天伯神社がある台地」の意である。「天伯/天白神社」と言っても、東海地方や長野県の人にしか伝わらない気がする。「天白/天伯」は、川岸に祀られる水神で、三重県では猿田彦命、愛知県では瀬織津姫命、静岡県では罔象女神を主祭神とすることが多いようだ。なお、折口信夫が見たという東三河の花祭りの「天白」は天狗(多分、猿田彦命)である。

※「謎の「天白神」は「天伯神」だ! 」
https://note.com/sz2020/n/n965733550547

 今の高師山には木が生えているが、当時は禿山だったので、景色がよく見えたという。なぜ禿山かといえば、木を切って陶器製作の薪にしたからである。

  たつならぬ高師の山の陶造物思をも焼とすと聞く(増基)

※「湖西窯跡群について」
https://www.city.kosai.shizuoka.jp/soshikiichiran/kanko/1_2/10358.html

現在は、「浜名湖西焼」と呼ばれている。
湖西土耀変天目茶碗の再現に向いている。

※「湖西焼」
http://kosai-city.net/kosaiyaki/

■おわりに


今回(全7回シリーズ)、

※過去記事:「最近の「橋本宿」関連記事のまとめ 」
https://note.com/sz2020/n/n87afd2987736

と重なる内容が多いが、出来るだけ重複しないようにした。
また、同じ場所の写真を載せるのは芸がないので、中村美代子画伯の水彩画を使用させていただいた。

※「新居の画家」というと、・・・「橋本雅邦門下四天王」(横山大観、下村観山、西郷孤月、菱田春草)のうち、最も将来を嘱望され、橋本雅邦の四女・榮と結婚(媒酌人は岡倉覚三)した西郷孤月(三河西郷氏)が1年間、橋本で新婚生活を橋本でおくったというが、ある酒席で、師であり義父の橋本雅邦と口論となって、離婚。岡倉天心の子・岡倉一雄によれば、口論の理由は、西郷孤月の浮気だという(松本清張『岡倉天心』(河出文庫)p.239)。



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