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『新編鎌倉志』(巻之一)「鎌倉大意」

「かまくら」=「かまど(竈)+くら(洞)」か?

「かまくら」と聞いて思い起こすのは、秋田県横手市の「かまくら」である。「かまくら」の語源には、
①形が竃(かまど)に似ているから「竃蔵(かまどくら)」
②内部に水神を祀るので、神の御座所「神座(かみくら)」
など諸説あるが、私は、形が竃に似ており、中で火を焚くことから「竃+くら」だと思っている。また、同様の「雪洞」を新潟県魚沼地方では、「ほんやら洞」という。「くら」は、蔵、倉といった建物(倉庫)ではなく、「ほら(洞)」の方言だと思われる。(鎌倉では「谷」を「たに」と言わず、「やつ」と言うようなもの。)

全国に「洞(ほら)」地名がある。
http://kakijun.com/kanji/chimei/6d1e.html
その地名の由来である「ほら」は、次の4種類に分かれるという。
①海岸などの岩穴や鍾乳洞のこと。
②集落から遠く離れていて、民家のない谷のこと。
③山から小川が流れ落ちて出来た(山側に窪んで見える)扇状地のこと。
④山間部を流れる小川の流域の細長い平地のこと。
「洞(ほら)」地名が多いのは、岐阜、長野、愛知県で、③と④が多いという。私が行った「大洞」も、大きな袋小路のような場所だった。袋小路とは、道の両側に家、そして、歩いていくと、正面に家があって行き止まりの道をいう。袋小路の家が山、道が田畑や家がある平地に置き換わった場所が「洞(ほら)」である。

 では、「鎌倉(かまくら)=かまど(竈)+洞(くら、ほら)」かといえば、源頼朝が幕府を置いた「大倉」は「大洞」のことであろうが、相模国鎌倉郡鎌倉郷は、洞(ほら)と呼ぶには広すぎる。

「かまくら」=「屍蔵」(かばねくら)か?

実は、「鎌倉」の語源には、すでに触れています。
https://note.com/sz2020/n/ne410beaf3be1

現在、最も有力な説は、「かまくら」=「屍蔵」で、神武天皇の東征時、反抗した東夷の死体を積み上げたら、屍蔵(鎌倉山)になったといいます。戦国時代、多くの戦死者を埋めた「塚」は「戦人塚」とか「千人塚」と呼ばれる大きな「塚」になっていますが、「山」にまではなっていません。それに「神武東征」は日向国から大和国までのことかと。別働隊が伊勢国を攻めたとは聞いていますが、相模国まで来たというのは初耳です。日本武尊や、坂上田村麻呂の東征なら聞いたことがありますが。
 死体は甕に入れ、土を掘って埋めます。すると、甕の体積だけ盛り上がって「塚」になります。甕を石室に変えたのが円墳で、三河国~遠江国にかけては「火穴」と呼び、秋田県横手市の「かまくら」にちょっと似ています。

地名は、
・「竈に似ているから」という地形の特徴
・「神武天皇が・・・」という伝承
・「鍾乳洞があるから」というその場所にある印象的な物
などから付けられます。
 鎌倉にある印象的な物といえば、「鎌倉型横穴墓」です。この鎌倉型横穴墓を「屍蔵」と呼び、地名になったのではないでしょうか?

 『新編鎌倉志』「鎌倉大意」では、 『詞林采葉抄』の説を採用し、「鎌倉」の語源を「中臣鎌足が、故郷・鹿嶋市の鹿島神宮へ行く途中、由比里で霊夢を見て、常に持っていた鎌を埋めた倉(がある場所)」だとしています。その鎌は(遠江国鎌田御厨の鎌田神明宮に奉納する鎌のように)豊作祈願の鎌で、その倉は稲荷神社になったのですが、源氏がこの地を支配すると、鎮護国家、武将擁護の八幡神に変えた(稲荷神社は八幡宮の境内社になった)とのことです。(そもそも「藤原鎌足が(霊夢に従い)鎌を埋めた」ではなく、「東征軍の大将が(武将擁護を願って)鎌鑓を埋めた」であって、鎌鑓(かまやり)→鎌足(かまたり)と変化したのでしょう。)

【Recoの考え】
①「鎌倉」の語源は「屍蔵」で、洞窟のような「鎌倉型横穴墓」のこと。
②湿地帯「鎌倉」の語源が「神座」だとすると、その神は穀物神か水神。
 ・全国に「神座」地名はあるが、「佐倉」の方が多い。
 ・「さ」は早乙女、早苗の「さ」であるが「佐」を当てることが多い。
③「鎌足の鎌」は「将軍の鎌鑓」の転。
 ・鎌倉は砂鉄の産地。将軍が鎌倉に来たのは、鉄や鉄製品が目当てか?

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