『信長公記』に見る明智光秀の告白
『どうする家康』の徳川家康は、織田信長を討とうと考えていることを重臣たちに隠していましたが、明智光秀も、6月1日の夜まで隠していたそうです。(「本能寺の変」は6月2日の早朝。)
【現代語訳】 6月1日、夜になって、丹波国の亀山にて、明智光秀は、謀反を企て、明智左馬助秀満、明智次右衛門光忠、藤田伝五行政、斎藤内蔵佐利三と談合し、「織田信長を討ち、天下の主となる」作戦を究め、「亀山から中国地方(山陽地方)へは「三草越え」をする。しかし、引き返して、東に向けて馬の首を並べ、大江山(大枝ノ坂、老ノ坂)へ登り、山崎から摂津国の地を進軍する」と兵に伝え、先の談合の参加者に先手(先導)を命じた。
6月1日、夜になって、大江山へ登り、「右へ行く道は山崎、天神馬場を経て、摂津国へ行く街道である。左へ下れば、京へ出る道である。ここを左へ下り、桂川を越える」。漸くすると、夜が明けた。既に、織田信長の宿泊所・本能寺を取り巻き、明智勢は5つの方向から乱入した。
「敵は本能寺にあり」
明智光秀は、足利尊氏(源氏)が、鎌倉幕府を倒すことを決意し、兵を挙げた篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町篠八幡裏)で重臣たち「明智五家老」に織田信長を討つことを初めて告げた(『光秀行状記』)。
そして大江山に登った。昔、大江山には鬼・酒呑童子がいた。京から源頼光(源氏)が来て討った。討ち取った首を京へ持ち帰ろうろしたが、老ノ坂の地蔵尊に「不浄な物を京に持ち込むな」と諌言され、さらに首が重くなってその場から動かなくなってしまったので、その地に首を埋葬した(心霊スポット「老ノ坂峠の首塚大明神」)。明智光秀は、大江山で「右ではなく、左へ下って京へ」ではなく、
「我は美濃源氏、土岐明智光秀である。ご先祖様は。京からここへ鬼退治に来られたが、我は逆に、ここから京へ鬼退治に向かう。鬼は本能寺にあり」
と言えばかっこいいが、実際には言わなかったようだ。
フロイス『日本史』には、「なぜ京へ?」と聞く兵に「中国へ行く前に織田信長に挨拶に行く」と答えたとある。『明智軍記』にも、「なぜ京へ?」と聞く兵に「織田信長が、中国へ出向く様子を京都で見たいと言っている」と答えたとある。
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