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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第4回)「矢のゆくえ」


      英雄がいない国が不幸なのではない。

   英雄を必要とする国が不幸なのだ。

 ドイツの劇作家・ベルトルト・ブレヒトが、『ガリレイの生涯』で、ガリレオ・ガリレイに語らせた言葉である。

 源頼朝が立った。「平家にあらずんば人にあらず」という状態だった日本━━人々は源氏の英雄を必要としていたのであろうか?
 庶民は支配者が平氏でも源氏でもよかった気がする。合戦は、朝廷と、武家(平氏)と、武家(源氏)の三者の権力争いに過ぎない気がする。庶民が心配なのは飢饉であろう。
 
 戦国時代(1467年(応仁元年)の「応仁の乱」~1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の約140年間)の発端は、ミニ氷河期「シュペーラー極小期」(1450年~1550年頃)の到来により作物の出来が悪くなったことだという。前回では、源頼朝の挙兵と関係あるのか、ないのか、「養和の飢饉」が何度も取り上げられていた。
・治承:治承5年7月14日、「養和」に改元
・養和:養和2年5月27日、「寿永」に改元
源頼朝の挙兵の治承4年(1180年)8月17日の約1年後に年号が「養和」に改元され、「養和の飢饉」(1181〜1182)が始まった。(源頼朝の関東政権では、養和、寿永は使われず、治承を引き続き使用した。)飢饉が始まれば、庶民は天皇の交替や、英雄の登場と政権交替(平氏から源氏へ)を望むものなのか?

 源頼朝は、挙兵にあたり、かつて、父・源義朝に仕えていた坂東武者に挙兵の協力を呼びかけた。6月24日~7月10日にわたり、安達盛長が説いて回ったという。この時、山内首藤俊通の子たちは、源頼朝の使者・安達盛長が来ても姿勢を正さず、双六を続けながら、兄・滝口三郎利氏(山内首藤経俊)は、弟・滝口四郎利宗(山内首藤俊綱)に向かい、
「流人になって貧乏になると、突飛なことを考えるものだ。平家の世を覆そうとは。今の佐殿の身の丈で(平家の世を覆すこと)は、富士山と背比べをする、あるいは、「猫の額にある物を鼠が窺う」ようなもの( 自分の実力を考えず、大それたこと、無謀なことをしようとすることのたとえ)だ。参陣はしない。恐ろしや、恐ろしや。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と言って嘲笑したという。『鎌倉殿の13人』では、
「ふざけるな、藤九郎。頼朝は流人ではないか。本気で勝てると思うておるのか。平相国と頼朝━━虎と鼠程の差があるわ。この度の挙兵━━まさに富士の山に犬の糞(くそ)が喧嘩を売ってるようなもの。わしは、糞にたかる蝿にはならん」
と言っていた。(糞が喧嘩を売ることはないので、「まさに富士の山に犬が喧嘩を売るようなもの。わしは、その犬の糞にたかる蝿にはならん」の言い間違いだと思う。私なら「蟷螂が斧を以て隆車に向かう(諺)、あるいは、鼠が猫の首に鈴をつける(『イソップ寓話集』)ようなものだ」と言うかな。)
 それにしても、乳母の子に、これ程までの扱いを受けるとは・・・。山内首藤経俊の弁護をすれば、園城寺(三井寺)にいた弟・刑部房俊秀が、源頼朝の挙兵に先立って以仁王の兵に加わり、南都に落ち延びる道中で討死しているので、平家に立ち向かうことの無力さを痛感していたのであろう。
 とはいえ、山内首藤経俊は、「山木館攻め」(「山木夜討ち」とも)に参陣しないばかりか、平家側につき、続く「石橋山の戦い」では、なんと、なんと、源頼朝に向けて矢を放った。(今回のドラマでも、安達盛長に「武士の情けじゃ。大庭殿には知らせないでおいといてやる」と言ってだまし、大庭景親に源頼朝の挙兵を知らせていた。)

■『源平盛衰記』
同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱が子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。折節一所に双六打て居たり。烏帽子に手綱うたせて筒手に把、御使にも憚らず、弟の四郎に向て云けるは、「是聞給へ。人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり。佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや。身もなき人に同意せんと得申さじ。恐し/\、南無阿弥陀仏/\」とぞ嘲ける。
https://core.ac.uk/download/pdf/228968298.pdf

 山内首藤経俊のように、源頼朝の挙兵に否定的な態度をとる者が少なくなかった一方で、
・知行国主変更(源氏→平氏)に伴って圧迫を受けた武士
・平家に近い豪族と対立関係にある武士
からは協力が見込めそうな状況にはあった。

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 さて、前回は100点満点の脚本だった。納得できた。素晴らしかった。
 しかし、今回は85点かな。なぜなら、いくつか疑問があり、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述とも異なるので。

▲『鎌倉殿の13人』のストーリー
・治承4年(1180年)8月17日に山木館と堤館を襲う日を籤で決めた。
 (軍議での籤は軍師・住吉昌長の役目であるが、
  籤は牧の方が用意して、全部「17日」と書いておいたという。)
・軍議では、北条義時が、恨み半分で「堤館も襲おう」と言った。
・8月17日は三嶋大社の祭日であり、山木兼隆が館にいるか不安。
・佐々木4兄弟が当日の夕方に到着した。
・八重が北条館に矢を放つ。(タイトルは「矢のゆくえ」。どこへ飛ぶ?)
 (あの布の位置・・・先に付けないと矢を放った時にひっかかりそう;)
・矢を「山木兼隆が館にいる」という連絡と悟った源頼朝は出陣を命じる。
  源頼朝は「川向こうから・・・八重か」と言ったが、私なら「川向こう 
 から(布の匂いを嗅いで)この香の香り・・・八重か」とするな。
・進軍コースは堂々と大通り「牛鍬大路」を往くよう源頼朝は指示した。
・佐々木経高が火矢を放った。4年7ヶ月に及ぶ源平合戦の始まりである。
 (これもまたタイトルの「矢のゆくえ」! さて、どっちが勝つか。)

疑問①:8月17日は、国衙(国府の役所。現在の県庁)の横にある伊豆国一宮・三嶋大社の祭日であるから、国司は参列しないといけない。ただ、国司は京都にいるので、目代・山木兼隆が代理で参加するはず。とすると、襲撃は、三嶋大社へ行く前の早朝か、帰館後の深夜である。昼間の襲撃であれば「山木兼隆が館にいるか?」と心配するが、早朝か深夜なら、心配せずとも「いる」であろう。

疑問②:八重は子細を書いた矢文を放てばいいのに、白い布だけつけて放った。矢が源頼朝とかに当ってしまうとは思わなかったのだろうか?

疑問③:「山木兼隆が館にいるか?」と気にし、その案件は「(足を怪我して三島へ行かずに)いる」と八重が矢で伝えたということで解決したが、「堤信遠が館にいるか?」とは気にしなかったのか? 堤館に着いてから北条義時が気にしていたが、「目代が行かないのなら、後見が祭りに行けるわけがないだろ」(by 北条宗時)ということであった。いや、いや、目代が行かないのなら、なおさら代参しなければならないのでは?(伊豆国一宮の祭り(儀式)に参列して幣帛を捧げ、伊豆国の平和を祈願するのは目代(本来は国司)の役目であり、「見物に行く」「遊びに行く」ではないです。)まぁ、深夜なら三島から多田の館へ帰っているでしょうけどね。
 なお、この日、三嶋大社へは、源頼朝の代参で安達盛長が行き、儀式が始まる前に幣帛を渡している。

疑問④:「朗報は寝て待て」と、源頼朝は北条政子の膝枕で・・・いくら出陣しないとはいえ、敵が味方を破って攻めて来る可能性もあるのだから、鎧を身に纏って縁側にいれば? 北条政子も、たすき鉢巻で、長刀を持てば?

※「以仁王の乱」の前後での伊豆国での変化
・知行国主:源頼政【死亡】→平時忠(平清盛の妻・時子の兄)
・国守:源仲綱(源頼政の嫡男)【死亡】→平時兼(平時忠の養子)
・目代:源有綱(源仲綱の次男)【奥州へ逃亡】→山木平兼隆(伊勢平氏)
※平時兼が「伊豆守」であるが、京都にいるので、現地にいる「目代」の山木兼隆が三島の国衙に通って伊豆国を管理した。
 堤信遠については、『吾妻鏡』には「兼隆後見堤権守信遠」とある。『鎌倉殿の13人』では、「伊豆守」が源仲綱であった時期、既に、平清盛に任命された「伊豆権守」だとしていたが、今回は「後見」としていた。(「権」は「副(サブ)」の意。)堤伊豆権守信遠は、源伊豆守仲綱の補佐をしており、山木兼隆とは居住地も近かったので、山木兼隆が目代になると、後見に抜擢され、目代・山木兼隆の相談に乗っていたというのがドラマでの設定であろう。(実際は逆で、流人の山木兼隆が目代になれたのは、堤信遠の推薦だという。)

※「山木兼隆」の名
・平信兼(桓武平氏)の子の「平兼隆」
・伊勢国鈴鹿郡関を本拠としていたので「関兼隆」
・伊豆国山木郷に流されたので「山木兼隆」
・流罪になる前は検非違使少尉(判官)だったので「山木判官」

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▲鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述
・治承4年(1180年)8月17日の早朝に山木館を襲うことに決めた。
・佐々木氏が遅刻したので出陣できなかった。
・佐々木氏が昼に到着したので、夜に襲撃することにした。
・北条館と山木館の直線コースは細道なので、遠回りの太い道を往った。
・堤館が近づくと北条時政が「堤館も襲う」と言った。
・佐々木経高が鏑矢を放った。源平合戦の最初の一矢であった。

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三嶋大社の例祭と「三島まつり」(三嶋大社公式サイト):伊豆に流されていた源頼朝が深く三嶋大社を崇敬していたことは広く知られる所です。この頼朝公旗挙出陣式は、源頼朝が、治承4年(1180)8月17日、三嶋大社祭礼の夜(18日未明)に挙兵し、初戦に勝利を得た故事に習い、万民和楽を願い行われます。本殿にて奉告祭、舞殿前では出陣式を執り行い、次いで市中パレードが行われます。
http://mishimataisha.or.jp/ritual/

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▲第1陣:北条館→原木→肥田原→牛鍬大路→堤館(佐々木隊)→山木館
                   →山木館(本隊)
▲第2陣:北条館(源頼朝本陣)→蛭島通り→山木館で合流

北条館:北条郡寺家。守山の山麓。円成寺。
山木館:伊豆の国市韮山山木。香山寺。
堤館 :多田。韮山運動公園付近。
蛭島 :蛭ヶ小島。流人・源頼朝がいた場所。北条氏の「東の小御所」。
江間館:南江間。江間公園(伝承)とも北条寺(小四郎山の山麓)とも。
※当時の居館は山麓に建てられる。江間公園は山と離れすぎ。
※地図の制作は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」伊豆の国市推進協議会。
 左(西)の「牛鍬」は「原木」もしくは「蕀木」の間違いでしょう。

 三嶋大社へ行くルートが分かれば、そのルート上で襲うのが、最も簡単だと思う。(三嶋大社の横が国衙で、山木兼隆は目代として毎日国衙へ同じルートで通っていたと思われる。)
 いずれにせよ、奇襲とはいえ、目代(現在の県知事代理)の館が数十人(『鎌倉殿の13人』では、前回、北条義時が「北条、仁田、加藤、狩野、宇佐美、那古谷らで300騎」と言い、今回は、前日の段階で、北条9人+仁田4人+加藤5人=18人で、当日、佐々木4兄弟が加わったとする)で攻撃されて、目代が討たれるとは・・・危機管理はどうなの?(数十人・・・源頼朝の人望の無さというより、平家に逆らうのが怖かった、周囲の人たちの出方を探っていたのでしょうね。なお、『平家物語』には、「北条四郎時政、子息三郎宗時、同小四郎義時、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱以下、彼是馬上、歩人ともなく、30余人、40人計もや有りけむ」とある。)

 山木兼隆を討ったのは、加藤景廉で、源頼朝から拝領した長刀で首を斬ったという。
 なお、佐々木兄弟は4人ではなく、5人であるが、五男・佐々木義清は、大庭景親の娘と結婚していたので、参陣していない。「石橋山の戦い」で平家方として戦うも、「黄瀬川の戦い」以降は源頼朝方に転じた。

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※加藤景廉:1156年生まれの25歳(当時)。源実朝の警護の任にあたったが、公暁によって源実朝が暗殺されたため、責任を感じて出家。法名「覚阿」。承久3年8月3日没。享年66。墓は静岡県伊豆市牧之郷。

「山木館攻め」は、小さな戦いではあったが、都では「平将門の再来」と騒がれたようである。(『玉葉』のこの部分は、高校の日本史資料集に載っていて、テストにも出ますよ!)

■藤原(九条)兼実『玉葉』「治承4年9月3日条」
 伝へ聞く。熊野権の別当湛増謀叛す。その弟・湛覺の城、及び、所領の人家、数千宇を焼き払う。鹿瀬以南併せて掠領しをはんぬ。行明同意すと。この事、去る月中旬比の事と。
 また伝へ聞く。謀叛の賊・義朝の子、年来配所伊豆の国に在り。而るに近日凶悪を事とし、去んぬる比、新司の先使を凌礫(りょうりゃく)す(時忠卿知行の国なり)。凡(およ)そ伊豆、駿河両国を押領し了(をは)んぬ。
 また為義の息(注:源行家)、一両年来、熊野の辺(あたり)に住す。而るに去んぬる五月乱逆の刻、坂東方に赴き了んぬ。彼(か)の義朝の子に与力し、大略謀叛を企つるか。宛(あたか)も将門の如しと、云々。


★呉座勇一 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第4話「頼朝軍の最初のターゲット! 山木兼隆と堤信遠って何者??」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91725

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①中原(1216年以降大江)広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆)
⑤梶原景時(中村獅童) 
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)=山内首藤経俊に参陣を促すが断られる。
⑧八田知家(?)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)=主人公と北条政子の父。「山木館攻め」参陣。
⑪北条義時(小栗旬)=主人公(北条時政の次男)。「山木館攻め」参陣。
⑫三浦義澄(佐藤B作)
⑬和田義盛(横田栄司)

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

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