2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第37回)「オンベレブンビンバ」
1.あらすじ「牧氏の変(前編)」
北条政子(小池栄子)、大江広元(栗原英雄)らと新体制を始動させた北条義時(小栗旬)は、北条泰時(坂口健太郎)を自身のそばに置き、強い覚悟で父・北条時政(坂東彌十郎)と向き合う。
一方、北条時政を蚊帳の外に置かれ憤慨する牧りく(宮沢りえ)は、元久2年(1205年)閏7月、源実朝(柿澤勇人)を廃して、源頼朝(大泉洋)の猶子で、娘(八木莉可子)の婿である平賀朝雅(山中崇)を鎌倉殿として擁立するよう北条時政に迫る(「牧氏の変」)。
牧りくに逆らえない北条時政は、覚悟を決め、北条一族を集める。
「オンブレブンビンバ。オンブレブンビンバ。オンブレブンビンバ」
突然、北条時政がうろ覚えの大姫(南沙良)の呪文を唱えた。「これを唱えると、いいことがある」。すると、「そうじゃない」と、皆、記憶をたどって呪文を言い合う。
北条政子「ウンダラホンダラゲー」
北条義時「ピンタラポンチンガー」
北条時房「プルップ・・・」
北条実衣「ウンタラクーソワカー・・・ボンタラ、ポンタラよ!」
5人で「ポンタラクーソワカー」の大合唱。
ナレ「正しくは『オンタラクーソワカー』である」
北条実衣「思い出せるものね」(いや、違うって;)
北条政子「ご苦労さまでした。父上の楽しそうな顔、久々に見た気がする」
今夜、北条時政と北条義時が対決して、どちらかが死ぬ可能性が高い。お互いその事を知っていて、知らないふりしての最後の団らん──悲しすぎる。
※大姫は間違っている。「オンタラクソワカ」は幸せになる呪文ではない。「帰命し奉る。虚空蔵菩薩よ。成就あれ」の意で、記憶力が増す呪文である。今回、北条一家全員の記憶力が増していないので笑えるのである。
https://note.com/sz2020/n/n98eb7e406923
その夜、覚悟を決めた北条時政は、源実朝に退位と出家を迫る。源実朝が断ると、北条時政は刀を手にした。「これは謀反だ」と、北条義時は、北条時政の名越亭へ向かう。父・北条時政を討つために。
※この時、源実朝が退位し、出家して京都で暮らせば、歌人として長生きでたであろう。
2.サブタイトル「オンブレブンビンバ」
大河ドラマのカタカナのみのサブタイトル(副題)は、2019年「いだてん~東京オリムピック噺~」の第31話「トップ・オブ・ザ・ワールド」、第40話「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、第43話「ヘルプ!」以来、3年ぶり4回目となる。
「意味不明」として、SNS上で「オンベレブンビンバ」の解読合戦「鎌倉殿オンベレブンビンバ知ったかぶり選手権」が開かれた。私も「オンベレブンビンバ=歩き巫女の呪文」として参戦した。
https://note.com/sz2020/n/n59a7037cb345
で、正解は、大姫が言っていた「オンタラクソワカ」の記憶違いであった。はずれちゃったよラッスンゴレライどーもすみまてぃん。(歩き巫女はもう登場しないのか?)
3.「牧氏の変」
(1)『吾妻鏡』に見る「牧氏の変」
閏7月19日、北条政子は、長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義、天野政景らを遣わして、北条時政邸にいた源実朝を北条義時邸に迎え入れた。北条時政側についていた御家人たちも源実朝を擁する北条政子に味方したため、牧の方の陰謀は完全に失敗した。
以上、『吾妻鏡』では、「牧氏の変」の首謀者を牧の方とし、北条政子が防いだとする。
■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)閏7月19日」条
元久二年閏七月小十九日甲辰。晴。「牧御方廻奸謀、以朝雅爲關東將軍、可奉謀當將軍家(于時御坐遠州亭)」之由有其聞、仍、尼御臺所、遣長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、同九郎胤義、天野六郎政景等、被奉迎羽林。即入御相州亭之間、遠州所被召聚之勇士、悉以參入彼所、奉守護將軍家。
同日丑尅。遠州俄以令落餝給(年六十八)。同時出家之輩不可勝計。
(元久2年(1205年)閏7月19日。晴れ。「牧の方が、陰謀を企み、平賀雅朝を関東将軍にし、今の将軍・源実朝(この時、北条時政の屋敷にいた)を廃する」という噂が流れたので、尼御台所(北条政子は、長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義、天野政景らを遣わして、羽林(源実朝)を迎えられた。相模守北条義時の屋敷に入られ、北条時政が呼び集めた勇士が、全員北条義時の屋敷に来て、将軍・源実朝を警備した。
この日(「次の日(閏7月20日)」の誤り?)の丑の刻(午前2時頃)、北条時政は、突然、出家した(年は68)。後を追って出家した人は数えきれなかった。)
※北条義時:江間殿(北条義時)は、元久元年(1204年)3月6日に従5位下相模守に叙任。以後の通称は「相州」となる。
(2)『鎌倉北条九代記』に見る「牧氏の変」
内容は『吾妻鏡』にほぼ同じ。
■『鎌倉北条九代記』「北條時政出家 付 前司朝雅伏誅」
牧の御方いとゞ奸謀重畳して恣に行ひ、時政に向ひて種々の非道を密談せらるゝ所に、時政も心操僻出でて、「義時、時房、泰特等の政務、一向、我が思ふ旨に叶はず」と常々は呟きて、何事も牧御方の申さるゝ義を只、善しとのみぞ思はれける。将軍・実朝、未だ御幼稚にして何の御智慮もおはしまさず。尼御台政子、内外に付きて政道を計はれ、皆、この命を守らる。然るに牧御方、又、あらぬ工(たくみ)を仕出し、「如何にもして、我が婿・武蔵守朝雅に関東将軍の職を継がせ、権威を耀かして見ばや」とぞ思ひ立たれける。実朝は、この比、遠州時政の亭におはします。「内々、当・将軍家を謀り申さるゝ」由、聞えければ、尼御台政子、大に驚き、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衞尉義村、同じき九郎胤義、天野六郎政景等を遣して、将軍・実朝を相摸守の亭に迎へ取り奉らる。かゝりければ、時政、潛かに集められし勇士等、悉く相州の方に参りて、御所を守護致しけり。
遠州時政、思ふ旨有りけるにや、俄に髮を剃りて、執権の事を留めて引き篭らる。行年六十八歳。いまだ老耄(ろうもう)すべき時分にもあらず。只、心の僻みたる所より我身を自ら苦しめらる。同時に出家せし人々、数多し。「是れ等も定めて陰謀密談の輩なるべし」と彼方の人は疑ひ思はれけり。
牧の御方も心ならず、鎌倉には居住するに足もたまらず、伊豆の北条に下向あり。
前大膳大夫入道、藤九郎左衞門尉等、即ち、相摸守殿の御亭に参じて評議あり。「朝雅、斯くて候はゞ、如何樣にも叛逆を起し、京、鎌倉、静かなるべからず。早く誅戮せば、太平の本なるべし」と一決して、「使者を京都に遣し、右衞門権佐朝雅を誅すべき」由、在京の御家人等に仰付けられたり。
同閏七月二十六日に、京都の武士、五條判官有範、後藤左衞門尉基清、源三左衞門尉親長、佐々木左衞門尉広綱、同じき弥太郎高重以下七百余騎にて、朝雅が六角東洞院の家に押し寄せたり。武蔵守右衞門権佐朝雅は、折り節、仙洞に候じて、囲碁の会に交わりて退出せず。小舍人(こねり)の童(わらわ)、走り来りて座を招き立ちて、かうかうと告げたりけるに、朝雅、更に驚き周章(あわ)てず、色にも出さず、元の座に帰り居て、某の果てたりける目算せしめ、石を蒔き収めて後に「関東より朝雅誅罸の使を上せられ、軍兵、私宅へ押寄せ候と申し来りて候。早く身の暇(いとま)を給はるべし」と仙洞へ奏聞し、馬に打ち乗り、六角の家に帰りければ、郎従共、早出向うて防ぎ戦ふ。朝雅、面(おもて)も振らず、寄手の中を蒐(かけ)通り、内に入て鎧を著(ちゃく)し、打ちて出でつゝ、四方八面に追ひ散らし、郎従、皆、打たれしかば、只一騎、落ちて行く。軍兵等、追(おひ)かくれども. 物ともせず、松坂の辺りまで落ちけるを、金持六郎広親、佐々木三郎兵衞尉盛綱等、跡に付きて隨ひ行けども追ひ詰むる人もなかりし所に、山内刑部大輔経俊が六男・六郎通基、其の時は、未だ持寿丸と名付けしが、聞ゆる強弓にて、近く馳せ寄って射たりければ、朝雅が頸の骨を箆深(のぶか)に射込みしかば、一矢なれども、痛手にて、馬より真倒(まっさかさ)まに落ちけるを、押へて首をぞ取りにける。さしも武勇の誉れを施し、当時、権勢の威を逞しくして、諸人、恐れて影をだにも踏まざりけるに、盛者必衰の理、誠に頼みなき世の有樣、勢ひ、磷(ひずろ)ぎ、運、傾き、一朝に滅びて死骸を路径の草むらに曝(さら)し、命を黄泉の底に落しけるこそ悲しけれ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186667/206
4.雑記
★『吾妻鏡』と『鎌倉殿の13人』の違い
『吾妻鏡』では、源実朝は北条時政の屋敷にいたが、阿波局が「北条時政が源実朝を殺そうとしている」と密告したので、源実朝を北条時義時の屋敷に移したとあるにもかかわらず、「牧氏の変」の時、なぜか源実朝は北条時政の屋敷にいた。
『鎌倉殿の13人』では、源実朝は御所にいたが、北条時政が自分の屋敷に連れて行ったと変えた。そして、三浦義村の裏切りで、北条時政&りくのクーデーターを北条義時&政子が知ったとした。なお「三浦犬は友を食ふなり」(三浦義村は友でも裏切る)とは、「下総犬は、臥処を知らぬぞとよ」と言われた千葉胤綱が言い返した言葉で、「和田合戦」の時の裏切りをいう。
■『古今著聞集』(巻第15)「闘評第24」
鎌倉の右府の将軍の家に、三月朔日、大名ども参りたりけるに、三浦の義村、もとより候ひて、大侍の座上に侯ひけり。その後、千葉の介胤綱、参りたりける。いまだ若者にて侍りけるに、多くの人を分け過ぎて、座上せめたる義村がなほ上に居てけり。義村、しかるぺくも思はで、いきどほりたる気色にて、「下総犬は、臥処(ふしど)を知らぬぞとよ」と言ひたりけるに、胤綱、すこしも気色変らで、とりあへず、「三浦犬は友を食(くら)ふなり」と言ひたりけり。輪田左衛門が合戦のことを思ひて言へるなり。ゆゆしくとりあへずは言へりける。
★脚本の矛盾
北条政範は病死であるが、『鎌倉殿の13人』では「執権になりたい平賀朝雅が毒殺した」という新説を採用した。それはいいのであるが、今回、平賀朝雅は「次期鎌倉殿に」と言われて「鎌倉は怖いから行きたくない」と言っていた。「だったら、執権になろうとして人を殺すなよ」って話。鎌倉も怖いが、次期執権を毒殺するお前も十分に怖いぞ。
★ネタばらし
今回、源実朝の側近が、北条泰時から阿野時元に変わった。その阿野時元は、「自分と源実朝の扱いが違い過ぎる」と不満だった。
建保7年(1219年)1月27日、従兄弟・源実朝が殺害されると、鎌倉殿の座を望んで翌・2月11日、挙兵したが、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られたとも、自害したとも。
★NHKからの発表!
①放送回数は48回。
②10月9日は特番「『鎌倉殿の13人』応援感謝!ウラ話トークSP」
③最終回は15分拡大版で12月18日。
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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
北条四郎時政┬長男・三郎宗時 (片岡愛之助) :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子) :母・伊東祐親の娘
├次男・江間小四郎義時 (小栗旬) :母・伊東祐親の娘
├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ) :母・伊東祐親の娘
├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依) :母・?
├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花) :母・?
├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史) :母・?
├?女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子) :母・りく
├?女・?=滋野井実宣妻(?) :母・りく=牧宗親の妹
├?女・?=宇都宮頼綱室(?) :母・りく=牧宗親の妹
├四男・遠江左馬助政範 (中川翼):母・りく=牧宗親の妹
├?女・?=坊門忠清(坊門信清の子)室(?):母・不明
├?女・?=河野通信室(?):母・不明
└?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明
▲北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬) ├次男・朝時(髙橋悠悟):母・比奈=比企朝宗の娘
├三男・重時(加藤斗真):母・比奈=比企朝宗の娘
├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘娘
├五男・政村(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
├六男・実泰(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
├七男・時尚(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
├?女・?=一条実有室(?):母・不明
├?女・?=中原季時室(?):母・不明
├?女・?=一条能基室(?):母・不明
├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
└?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明
▲源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
源頼朝──┬千鶴 (太田恵晴) :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋) ├長女・一幡(大姫)(南沙良) :母・政子=北条時政の娘
├長男・万寿→頼家 (金子大地) :母・政子=北条時政の娘
├能寛→貞暁 (?) :母・?=常陸念西の娘
├次女・三幡(乙姫)(太田結乃) :母・政子=北条時政の娘
└次男・千幡→実朝 (柿澤勇人) :母・政子=北条時政の娘
▲源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)
源頼家───┬長男・一幡 (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地) ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
├三男・千寿丸→栄実(?) :母・?=一品房昌寛の娘
├長女・竹御所 (?) :母・?=源義仲の娘
└四男・?→禅暁 (?) :母・?=一品房昌寛の娘
▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲参考記事
・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
・呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫 「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac
▲参考文献
・安田元久 『人物叢書 北条義時』 (吉川弘文館) 1986/ 3/ 1
・元木泰雄 『源頼朝』 (中公新書) 2019/ 1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/ 4/11
・濱田浩一郎『北条義時』 (星海社新書) 2021/ 6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』 (NHK出版新書) 2021/ 9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』 (講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』 (中公新書) 2021/12/21
・大迫秀樹 『「鎌倉殿」登場!』 (日本能率協会) 2021/12/22
・山本みなみ『史伝 北条義時』 (小学館) 2021/12/23
・山本みなみ『史伝 北条政子』 (NHK出版新書) 2022/ 5/10
・坂井孝一 『鎌倉殿をめぐる人びと』(NHK出版新書) 2022/ 7/10
・毛利豊史「源実朝試論」
https://core.ac.uk/download/pdf/80536497.pdf
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