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徳川家康の側室・西郡局

鵜殿長善┬長将┬長持【上ノ郷】─長照(「桶狭間の戦い」時の大高城主)
    │  ├長祐【柏原】─長忠┬長次
    │  └長成【不相】   └養女・西郡局(徳川家康の側室)
    └長存【下ノ郷】

 鵜殿家は紀伊国の熊野の別当家であり、湛増の子が新宮鵜殿村(和歌山県新宮市)に住したことから、「鵜殿」と名乗ったという。
 その後、熊野別当家が代々熊野三山の支配下にあった荘園「蒲形庄」「竹谷庄」の荘官として三河国に移住すると、鵜殿長善の子の代で、鵜殿長将(上ノ郷家)と鵜殿長存(下ノ郷家)に分立し、鵜殿長将の子・鵜殿長持が今川義元の妹婿となったことで、上ノ郷家が栄えたという。
 その勢力範囲は、東は浜松、北は豊橋市嵩山宿の本坂道南部、西は形&西(後に合併して蒲郡)にまで及び、湖西市鷲津の法華宗陣門流東海本山・本興寺は、鵜殿氏の外護により栄えた。

総本山
・長久山本成寺(新潟県三条市西本成寺)(越後国)
本山&別院
・本山   光了山本禅寺(京都府京都市上京区寺町)(山城国)
・東海本山 常霊山本興寺(静岡県湖西市鷲津)(遠江国)
・東京別院 徳栄山本妙寺(東京都豊島区巣鴨)(武蔵国)
・北陸別院 長松山本法寺(富山県富山市黒瀬)(越中国)
・霊跡別院 俎岩山蓮着寺(静岡県伊東市富戸)(伊豆国)


★鵜殿氏系図(本興寺)

鵜殿長近┬長将【上ノ郷】─長持┬長照┬氏長
    │          │  └氏次
    │          ├長祐【柏原】┬養子・長忠─長次
    │          │      ├三郎次郎   
    │          │      ├養女・時(西郡局)─督子
    │          │      └⑩日梅
    ├長成┬善助     ├長女・於田鶴(飯尾連竜室・椿姫)
    │  └⑨日禮    └次女(深溝松平家第3代伊忠室)─⑪日栄
    └長存【下ノ郷】─玄長─仙巌─長竜【蒲形】

・⑨日禮:本興寺第9世日禮(にちらい)
・⑩日梅:本興寺第10世日梅
・⑪日栄:本興寺第11世日栄

 松平元康は、永禄5年2月4日の「上ノ郷城攻め」で、宗主・上ノ郷鵜殿長照を討ち取り、上ノ郷城に生母・於大の方の後夫・久松長家を入れたので、柏原鵜殿長忠は、「次は自分の番だ」と恐れ、加藤義広の娘・時姫(1590?-1606)を養女とした上で、松平元康に人質として差し出して松平元康に服した。後に、松平元康が時姫を側室にすると、時姫は「西郡局(にしのこおりのつぼね)」と呼ばれるようになった。

(注)久松長家:松平元康が清和源氏新田氏流を称し、源義家の「家」を使って「家康」と改名すると、「家」の字を使うのを畏れ、「俊勝」と改名した。息子達は「松平」姓を拝領し、近世大名の久松松平家は「源義家の末裔だ」と自称したが、久松氏の本姓は「菅原」で、家祖は、菅原道真が大宰府に左遷された時、尾張国知多郡阿久居(現・愛知県知多郡阿久比町)へ配流された「久松殿」こと、菅原道真の孫・久松麿(後の菅原雅規)だとされている。


 西郡局が生んだ督子(阿普姫、於普宇(おふう、於冨宇)、督姫、富子(ふうこ、冨宇子)、於富の方)は、北条氏直に嫁いだが死別し、豊臣秀吉の仲介で池田照政(吉田城主時代。後に姫路城主となって「輝政」に改名)と再婚した。

                 北条氏直
                  ├2女
 加藤善左衛門義広─時姫(西郡局)─督子(於富の方)
                  ├5男2女
                 池田照政

★督子の生年
・説①:永禄8年(1565年)11月11日誕生説:従来説(『徳川幕府家譜』)
・説②:永禄11年(1568年)誕生説:異説(『法華宗全書』)
・説③:天正3年(1575年)11月11日誕生説:新説(『幕府祚胤伝』)
・説④:天正4年(1576年)11月11日誕生説:真説(『義演准后日記』)

 僧侶・義演の日記『義演准后日記』の裏表紙の祈祷のメモに子年の11月11日生まれとある。祈祷には正確な生年月日が必要であるので、督姫は天正4年丙子11月11日生まれで確定である。
 時姫が岡崎城に入ったのは永禄5年2月4日の「上ノ郷城攻め」直後で、側室・西郡局となったのは、築山殿との離婚後の事(天正4年に督姫が生まれているので、天正3年頃か)だと思われる。


 西郡局は、慶長11年(1606年)5月14日、伏見城にて急死。戒名(法華宗では「法名」ではなく「戒名」)は「蓮葉院殿日浄」である。
 徳川家康の命により、夫である姫路藩主・池田輝政が葬式を執り行い、遺骸は本禅寺に葬られ、遺品は本興寺に納められた。
 翌年、池田輝政は、姫路城外に青蓮寺を建立して墓所を移したが、元和4年(1618年)、池田輝政の四男・池田輝澄は、総本山である長久山本成寺13世・日教聖人を招き、青蓮寺を現在地(兵庫県宍粟市山崎町)に移転した。

★西郡局の墓
・法華宗別院・本禅寺(京都府京都市上京区寺町通)の塔頭・心城院
・法華宗別院・本興寺(静岡県湖西市鷲津)
・青蓮寺(兵庫県宍粟市山崎町山崎)
・長応寺(東京都品川区小山)

■林善茂『法華宗農場顚末』(部分)

 法華宗は法華経を所依とする宗派であることは云うまでもないが、これ
に広狭三様の異義がある。そのーは天台宗の別称としての法華宗であって、
古くは法華宗といえば、それは天台宗のことであった。その二は日蓮宗のこ
とであって、鎌倉以後法華宗といえば、もっぱら日蓮宗を意味する様になっ
た。その三は日蓮宗九派の中の一派である法華宗であって、これが最もせま
い意味での法華宗である。これから述べる法華宗農場は、第三の意義での法
華宗、すなわち日蓮宗の一派である法華宗に関係するものに外ならない。 こ
の宗派は、日蓮門下六老僧の一人である日朗の弟子日印を開祖とし、新潟県
三条市の本成寺を総本山とするもので、明治 9年一派を別立して日蓮宗本成
寺派と称したが、明治 31年官許を得て独立し、法華宗と改称せるものである。
 北海道の北部、天塩郡幌延町上幌延にある長応寺は、この宗派に属する
別格寺院として道内で最も寺格が高いばかりでなく、北海道の寺院として珍
しく歴史の古い由緒のあるお寺であって、その起原は遠く室町時代の中期、
文明年聞にさかのぼる。道内の寺院でこれに匹敵しうるものは、本道の寺院
中で最も歴史が古く、文明元年に奥尻島に於いて開基されたと伝えられる、松前家ゆかりの法源寺(松前町所在)以外にはない。すなわち長応寺は、後土御門天皇の御代、文明年聞に、三河国西の郡上郷(愛知県宝飯郡蒲郡市神郷)の城主鵜殿藤太郎長将の寄進によって創立され、永正13年6月24日に将が歿すると、長将の長とその法名応{山大居士の応をとって長応寺と号した。開基は総本山である本成寺の歴代管長4世日存上人の高弟である日運上人であって、開山には日寮上人が普山され、爾来鵜殿家累代の菩提寺となった。
 長将の長子、鵜殿三郎長持は、今川義元に仕えてその妹を娶り、今川家
の重臣として頗るおもきをなしたが、弘治3年9月11日、長持が歿するや、
長持の長子、藤太郎長照が跡を継ぎ、弟、藤助長忠とともに上郷城を守った。しかるに永禄3年5月19日、桶狭間の戦で今川義元が戦死するや、岡崎の松平元康は織田信長とむすんで今川方に叛し、永禄5年2月4日、久松俊勝、酒井忠次等をして長照の守る上郷城を急襲してこれを陥れたため、長照は戦
死してその二子は生檎りとなり、長忠は逃がれて駿府に走った。その後、駿
府に人質となっていた元康の妻子(築山殿と竹千代、亀姫の二子)との交換によって、長照の二子も無事駿府 lこ帰ったが、永禄12年5月6日、今川氏真が家康(元康改め)に追われて小田原に走り、今川家の没落をみるや、長照の二子及び長忠は共に召されて家康に仕え、長照の子孫は数代にして跡継がないために断絶したが、長忠の子孫は繁栄して幕府の要職につくものもあり、代々旗本として幕末に及んだ。
 上郷城の落城に際して、鵜殿家の菩提寺である長応寺も兵火のために炎
上し、七堂伽藍すべて烏有に帰し、旧記の類も悉く焼失した。当時、長応寺の住職は6世日翁上人であったが、あらかじめ避難せる寺宝のうち釈迦牟尼仏の木像一体のみを草庵に安置し(愛知県浦郡市の正行院がこれであって、木像も現在する)、その他一切を泰持して江戸の日比谷に移り、ー寺を建立して長応寺の法燈をかかげた。その後、竹川町に移転し、更に文様元年には芝の伊血子に移転し、法華本門の法陣の本山として、長応寺の白絡を継承し、永く寺運の確立を計った。こうして三河の西郡に開基された長応寺は、戦国の動乱期に武蔵の江戸に移転し、江戸時代には鵜殿家との不思議な因縁によって非常な興隆をとげ、それが更に明治の変革期には再び遠く北海道の 幌延に移転することになるのであるが、それについては更に順を追って次に説明することにしよう。
 長持の次子、鵜殿藤助長忠は上述の如く徳川家康に仕えたが、やがてその娘おとくが家康の側室として召出され、西郡の方と称された。彼女には男
子はなかったが、天正11年8月北条氏直に嫁し、氏直の死後秀吉の命によっ
て、文禄3年9月池田輝政に再嫁した家康の次女督姫は、西郡の方の産むと
ころである。天正18年小田原陥落後、家康は北条氏の跡地に移封、いわゆ
る関東国替となり、西郡の方も家康にしたがって江戸に下向したが、そこで
おもいがけなくも実家鵜殿家の菩提寺である長応寺の法燈を守る日翁上人に
再会し、仏縁の不可思議をこころから喜び、深くと人に帰依した。以来、西
郡の方は長応寺の大檀越として外護の念厚く、ありし日の三河西郡の長応寺
の様相をそのままに七堂伽藍を寄進されたので、長応寺は俄堂坊十余院を
有する大寺院となり、鵜殿家一族の菩提寺たるはいうまでもなく、江戸の発
達にともなう武家の壇信徒の増加によって、寺院の格式も著しく高まった。
その結果、江戸時代を通じて、長応寺は中本寺として宗門の役寺であったば
かりでなく、幕府より江戸市中日蓮門下総寺院の取締を丸山の本妙寺と交替
で隔年に命ぜられ、江戸における日蓮宗関係寺院の代表的存在となった。因
みに、長応寺復興の大恩人たる西郡の方は、慶長11年5月14日、京都に於
いて死去したが、その際日翁上人は上洛して当宗本山である京都本禅寺にお
いて葬儀を執り行ない、御骨を奉持して江戸に帰山、長応寺裏に廟所を設け
位牌を本堂内陣に祭って、永くその功に報いた。なお、蓮葉院日浄尊霊と記
された西郡の方の位牌は、こんにち長応寺に現存している。
 江戸時代の末期になって、その年月は詳でないが、近火のために長応寺
の本堂が類焼したため、とりあえず御本尊を庫裏に安置して法陣を布いた。
ところが安政5年に米・英・仏・露・蘭との聞にいわゆる五カ国条約が締結
されるや、各国は外交官邸を江戸に設けることになり、さしあたって江戸市
中の寺院がこれにあてられ、アメリカは麻布の善福寺、イギリスは高輪の東
禅寺、フランスは三田の済海寺をもってそれぞれ仮公使館としたが、長応寺
もオランダ公館として使用されることになった。そのため御本尊は庫裏か
ら更に境内に移され、寺院としての活動も殆んど停止された。やがてオラン
ダ公館が新築移転したため、御本尊は再び庫裏に帰り、寺院の活動も復活さ
れたが、すでに昔日の面影は失われ、檀信徒も寺院の公館借受によって信仰
を中断されたため離散し、その上、維新の変革による武士階級の没落によっ
て武家の檀信徒の多くを失ったため、明治以後、長応寺の檀家は僅かに30余
戸を数えるにすぎなくなり、寺院の経営に困難を来すに至った。こうして長
応寺は江戸時代の興隆にひきかえて、明治以後は極度の衰微をみるに至った
が、やがてそのことが遠く北海道に長応寺を移転せしめ、法華宗農場を開設
せしめるそもそもの原因となったのである。

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