見出し画像

「近交遠攻」か「遠交近攻」か

 遠江国の徳川氏は、東隣・駿河国の武田氏を倒すのに、駿河国の東隣・相模国の北条氏と手を組んだ。兵法三十六計の第二十三計「遠交近攻(えんこうきんこう。 遠 ( とほ ) きに 交 ( まじ ) はり 近 ( ちか ) きを 攻 ( せ ) む」である。

 中国の戦国時代では一国を攻める場合には複数の国々が同盟を組み、その一国を攻め落とした後に得られた戦果は分担する「近交遠攻」が慣わしであった。そして、同盟相手として選ばれたのは自国と隣接した国々であった。しかし攻め落とした国を得た場合、それは飛び地となり、領地の維持が難しく、結局はすぐまた領地を取り返されてしまっていた。それで范雎は遠交近攻を説いたのである。

 「近交遠攻」にしろ「遠交近攻」にしろ「攻」が前提である。

 私が戦国大名であったなら、国境を接する国々と「交」を結び、「攻」はしない「永世中立国宣言」をするけどね。甘いかな?

■『韓非子』(説林上)「遠水不救近火也(遠水は近火を救わず)」

厳しい伝役・平手政秀と幼き織田信長

※ドラマでは、織田信長の人格形成に大きくかかわったのは、父・織田信秀と伝役(もりやく。教育係)・平手政秀だとするが、私は弟・織田信勝の裏切りだと思う。織田信勝が織田信長を裏切っていなければ、「そばにいて支えてくれ」と言う相手は徳川家康ではなく、織田信勝だったはず。

魯穆公使衆公子或宦於晉、或宦於荊。犁鉏曰、「假人於越而救溺子、越人雖善遊、子必不生矣。失火而取水於海、海水雖多、火必不滅矣。遠水不救近火也。 今晉與荊雖強、而齊近。魯患其不救乎」。

『韓非子』

魯(ろ)の穆公(ぼくこう)、衆公子(しゅうこうし)をして或いは晋(しん)に宦(かん)し、或いは荊(けい)に宦せしむ。犁鉏( りしょ )曰く、「人を越(えつ)より仮りて溺子(できし)を救わんとせば、越人善く遊ぐと雖も、子は必ず生きざらむ。火を失(しっ)して水を海より取らば、海水多しと雖も、火は必ず滅えざらむ。遠水(えんすい)は近火(きんか)を救わざればなり。今、晋と荊とは強しと雖も、而(しか)も斉(せい)は近し。魯の患(かん)、其れ救われざらんか」と。

魯の穆公は公子達を晉と荊とに仕えさせた。(これは、隣国の斉が攻めてきた時に強国の晉や荊に助けてもらおうという魂胆だった。) それを犁鉏が「溺れている人を救うために、泳ぎの上手い越の人を(遠くの越まで)呼びに行っても溺れてしまう(間に合わない)。火事を消そうとして、水がたくさんある(遠くの)海から引こうとしても、そうしてるうちに燃え尽きてしまう。遠くの水では近くの火は消せない(間に合わない)。晉と荊は強国であるが、魯からは遠い。魯が隣国の斉に攻められた時には、恐らく魯の助けにはならない」と諫めた。

※「遠水は近火を救わず」とは、「遠くの親戚より近くの他人」ということである。


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。