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Reco説「神は遺体」「御霊の起源は荒魂」

 昔、橋を架ける工事の前には川神に人身御供を捧げたという。そうしないと工事中に死者が出るという。
 架橋事故で誰か死んだら、どう考える?
・工事の方法が悪かったのだろう。労務災害である。
・その人は、そうなる運命(天命、宿命)だったのだろう。
・その人は、何か悪いことをしたので、天罰(神罰、仏罰)が下ったのだろう(因果応報。自業自得)。
・その人は(その工事が)、川神の怒りに触れたのだろう。

 ━━神、霊、悪霊(怨霊)、妖怪、お化け・・・は、いつ生まれたのか?

「御霊信仰(ごりょうしんこう)」とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。日本では、人が死ぬと魂が霊として肉体を離れるという考え方は、例えば縄文期に見られる屈葬の考え方のように、原始から存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになった」(Wikipedia)

 現在、死者の弔いは寺の範疇であり、人が亡くなると、ご遺体を「仏様」と呼ぶが、古代では「神様」と呼んでいたのではないだろうか。

※「神」の語源:江戸時代の国学者は、「神(かみ)」の語源を「上(かみ)」(上の方にいる尊ぶべき存在)だと考えていたが、神の「み」と上の「み」の発音が室町時代まで異なっていたことが判明し、現在の国語学者は、「神」の語源を「隠身」(目に見えない存在)だとしている。とはいえ、姿が見えず、言葉だけがあるのは、宇宙の創造主「造化三神」だけかと。「隠れる」とは、「死ぬ」ことなので、「隠身(かみ)」=死体というのが、本来の意味であろう。

  神といひ佛といふも世中の
          ひとのこころのほかのものかは (源実朝)

 私は、「神」とは「死体」であったが、転じて「死者の霊」を指すようになったと考えている。そして、神社に祀られている神=霊は、「神中の神」(他の霊よりも強大な霊)であり、それは、生存中に強大な力を持っていた人物の霊(亡くなった偉人の霊)だと考えている。(たとえば、天照大神は、女王・卑弥呼の霊であろう。)

 さて、神の魂の内、人々に幸福をもたらす魂を「幸魂」「奇魂」といい、禍をもたらす魂を「荒魂」という。そして、平安時代になって、「最近、不遇の内に亡くなり、神となった人の荒魂」が「御霊」と呼ばれるようになったのであろう。(たとえば、「菅原道真の御霊」とは、「最近亡くなって神となった天神・菅原道真命の荒魂」のことであろう。)

■Reco説「神は死体」「御霊の起源は荒魂」

 かみ(隠身)=死体→死者(神)の霊┬幸魂
                  └荒魂→御霊(怨霊)

 上総広常が暗殺された。その理由は『吾妻鏡』には書かれていないが、『愚管抄』には、源頼朝が次のように後白河法皇に語ったとある。

「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ。ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引はたらかさん」など申して謀反心の者にて候しかば、かかる者を郎従にもちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思ひて、うしない候にき。

(上総広常は、「どうして武衛(源頼朝)は、朝家(朝廷)のことのみを見苦しく思う(見るに忍びなく思う、見ていて辛く思う→心配する)のか。ただ、関東がこのような状況にあるのに、誰が中心となって動くというのだ(遠い京都の心配よりも、地元の関東に目を向けることこそ肝要)」などと言う謀反心のある者でしたので、このような者を家臣にしていては、自分の冥加(好運、幸運)まで失うと考え、上総広常を殺したのです。)

 源頼朝が「見苦しい」(心配だ)と思うのは、上総広常が討たれた12月22日以前の話であり、たとえば、源義仲が、法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を捕縛し、五条東洞院の摂政邸に幽閉した11月19日の「法住寺合戦」のことである。後白河法皇の安否も心配だが、源義仲による源氏ブランドの失墜も心配である。それを、上総広常は「京都のことは京都の人に任せておけ」と言ったのであるが、源頼朝にしたら、自分が立ったのは「以仁王の令旨」によるし、関東が鎮まったのは「寿永2年10月宣旨」の発給のおかげであって、関東の治世は朝廷の動向と密接に結びついていると考えていたのである。
 なお、殺害理由を、学者は、「東国独立志向の上総広常は、朝廷に深く関わることに否定的で、源頼朝が上洛するには、上総広常の殺害が必要だった」としている。歴史の流れは、
・「富士川の戦い」で勝った源頼朝は上洛しようとしたが、坂東武者が反対
・「寿永2年10月宣旨」で力を得た源頼朝は源義経を上洛させた。
・朝廷との結びつきを「平家が源氏に替わっただけ」と坂東武者が批判
・批判する坂東武者の代表・上総広常を討伐
となろうが、私は、「東国大好きの上総広常は、朝廷の動向を気にして右往左往する必要は無く、まずは東国をがっちり固めよう」と主張しただけのように思っているので、上総広常を殺害した理由が分からない。「下馬の礼」を怠るとか、馴れ馴れしい態度が気に食わなかっただけでは殺害理由にはならないと思う。この記事では、一応、「殺害して鎌倉の守護霊にした。それが気に食わない鎌倉の守護社・鶴岡八幡宮は、血で穢れたとして、正月の神楽に源頼朝を招待しなかった」としておく。

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月1日」条
 壽永三年正月小一日辛卯。霽。鶴岡八幡宮、有御神樂。前武衛、無御參宮。去冬依廣常事、營中穢氣之故也。

(寿永3年(1184年)1月1日。晴れ。鶴岡八幡宮で、神楽があった。源頼朝は参宮しなかった。これは、去年の冬(寿永2年12月22日)の上総広常の事で、大倉御所が穢れているからである。)

『鎌倉殿の13人』では、
・反源頼朝の御家人がいた。
・「近寄れば、お前(北条義時)でも殺す」と恫喝して最も巨大な御家人・上総広常を殺し、「はむかう者は誰であっても殺す」と恐怖政治の宣言。
とした。言い換えれば、「上総広常を、分裂した鎌倉を1つにまとめるための人身御供にした」(上総広常の暗殺=鎌倉の足固めの儀式)とした。

 ━━上総広常は怨霊にならなかったのか?

 史実の上総広常は一瞬で首を刎ねられたが、『鎌倉殿の13人』の上総広常は、梶原景時に斬られ、さらに斬られた理由が「謀叛人であるから」と言われて、「義時(そうでないって事をちゃんと説明してくれ)」と詰め寄るが、北条義時はうつむいた。そこに源頼朝が現れたので、今度は「武衛」と詰め寄ったが、その時、全てを悟った。
「武衛、お前の策だったのか。やるじゃねぇか。これで坂東は泰平だ」
と、その死に顔は穏やかで、笑みを浮べているかのようにも見えた。
 強大な人物ほど強大な霊になるであろうから、上総広常の霊は、鎌倉の強大な守護霊になったことであろう。(とはいえ、史実の梶原景時は、上総広常の暗殺直後、軍を率いて上総氏を滅ぼしているので、上総広常の怒りは計り知れないであろう。『吾妻鏡』には、翌年に入って、上総広常が奉納した鎧から源頼朝の大願成就と東国泰平を願う願文が見つかったという記事が載せられている。鎮魂(贖罪)のための記事であろう。)

「御霊」になる可能性が高いのは、安徳天皇と源義経であろうか。人々は、この2人の霊が「御霊」になるのを恐れて、ある工夫をした。
 ━━生存説である。
死ねば怨霊になるが、生きていれば、怨霊にはなれない。
 ところが、実際は生き延びず、亡くなっていたので、「御霊」になった。
 建久9年(1198年)12月27日、源頼朝は、上総広常が護る鎌倉を出て、橋供養(橋の落成式)に参列した。橋が、あの世とこの世を結んだのであろうか、源頼朝は、安徳天皇と源義経の怨霊を見て驚いて落馬し、川原石で強く胸を打ち、その後、死を悟って翌・建久10年(1199年)1月11日に出家し、1月13日に死去した。享年52。幻覚症状(怨霊を見たこと)から、附子(トリカブト)を飲まされていたと考えられているが、実際は、大怨霊、いや、落成式の大音量の太鼓の音に馬が驚いて暴れたので、落馬したのだという。

※白旗神社:全国に約80社ある。御祭神は源頼朝であるが、8社だけは御祭神が源義経である。
※赤間神宮:御祭神は安徳天皇(水天皇大神)である。御神徳は水難除け、諸願成就、安産である。「水難除け」「諸願成就」は安徳天皇の無念の反映であり、「安産」は「安徳天皇女性説(安徳天皇姫宮説)」の傍証の1つとなっている。
http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/index.html

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