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縁側で首を切るコツ at 本能寺(『乙夜之書物』)

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■関屋政春『乙夜之書物』
一、御番衆、随分働といゑども、思いよらぬ事なれば、何(いずれ)も素肌にて僅かの人数。敵は具足、甲を着、弓、槍、鉄砲を備えて大勢で攻め込む。終に縁の上ゑ追い上げ、突き伏せ、切り伏せ、首をとる。去れども、何としても首落ちず。其の時(後略)。

【意訳】「本能寺の変」において、御番衆(宿直の警備兵)はよく戦ったが、不意打ち(夜明けと同時の奇襲)であったので、皆、武装しておらず、数も少なかった。これに対し、明智軍は、具足を身に纏い、兜を被り、弓、槍、鉄砲を持って大勢で本能寺へ攻め込んでいた。初めは庭で戦っていたが、終に縁(濡れ縁ではなく広縁)に登り、敵(御番衆)を突き伏せ、切り伏せ、首をとった。さりながら、(ある味方は)どうやっても首を切り落とせないでいた。その時登場したのが・・・。

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 この時現れたのが、「笹の才蔵」「槍の才蔵」こと可児才蔵吉長(かにさいぞうよしなが)である。 天文23年(1554年)、明智郷がある岐阜県可児市の隣の岐阜県可児郡御嵩町で生まれ、体格が似ていたのか、明智光秀の影武者を務めていた時期がある(「山崎合戦」では、「本能寺の変」で帰農した磯野員昌に代わって影武者を務め、明智光秀から朱槍を拝領した)というが、明智光秀は享禄元年(1528年)生まれであるので、年の差がありすぎて、影武者には無理があるとは思うが、戦場で遠くから見た程度では分からないのであろう。
 愛宕権現を厚く信仰しており、「我は愛宕権現の縁日に死なん」との予言通り、慶長18年(1613年)6月24日の愛宕権現の縁日に亡くなったという。

笹の才蔵:大将の影武者は強くなくてはならない。簡単に討たれたら、相手の勢いは増し、味方は大将が討たれたと勘違いして士気が下がる。実際、「関ヶ原の戦いで最も多くの首をとった男」として知られる可児才蔵は強かった。戦場では多くの敵を倒すので、笹を背負い、倒した相手の口に笹を含ませておき、戦が終わってからゆっくりと首を切ったという。(首の切り落とし方には精通したことであろう。)
 ちなみに笹(ささ)や竹葉(ちくよう)は「酒(さけ。「ささ」は女房言葉)」の異称であり、笹を口に含ませるということには、「末期の水の代わりにお酒をどうぞ」という弔いの意味が含まれているという。
■参考サイト:駒澤大学総合教育研究部「情報言語学研究室」
酒の異名「竹葉」と酒飲みの異名「上戸」他

 本能寺に攻め込んだ味方(明智軍の武士)が、縁側で倒した敵(織田軍の武士)の首を切り落とせないでいるのを見た可児才蔵は、縁側のような「拭い板(ぬぐいいた)」(滑らかになった板)の上に倒れている死体の首の切り落とし方のコツを教えてあげたという。そのコツについて、『乙夜之書物』には、
「下は拭い板ぞ! 手を下げよ!」
とある。私なら、
「まな板の上で骨付き肉を切る要領を思い出せ! 刃を立るな、寝かせろ!」
と言うであろう。言い方が違うだけで、同義(利き腕を下げて刃を寝かせる)だけど、

 ──『武家事紀』の記述は違うぞ!

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