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「尾張」国号考

1.6説あり

 尾張/尾治国の「尾張/尾治」という国号の由来については、尾張氏が開拓したので「尾張/尾治国」となったする「氏族名」説と、逆に大和国小墾田の某氏が移住してきて本拠地を「小針」とし、「尾張」氏と名乗って開拓したので、国号が「尾張/尾治」になったという「地名」説があります。
(「おわり」の表記には「尾張」と「尾治」があったが、大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに「尾張」と定められた。)

★尾張氏の動向
・4c後半 尾張国へ来て、婚姻関係を通して大和政権と繋がる。
      ⑤孝昭天皇皇后=世襲足媛(尾張連祖・瀛津世襲の妹)
      ⑩崇神天皇妃=尾張大海媛
・5c末  尾張国南部を勢力下に置く。
・6c初頭 尾張国中部・北部に進出する。
・6c前半 尾張国全域を支配する。

※尾張氏については、①海人族で、紀伊国、伊勢国を経て尾張国へ入り、海産物の交易により天皇家に近づいた物部氏族とする説と、②大和国、もしくは、丹後国から飛騨、美濃を経て尾張国に入った物部氏族とする説があります。(尾張国の尾張氏も、丹後国の海部氏も、大和国の物部氏(内物部)も系図が天火明命から始まっているので「同族」ですが、血の繋がりは薄いかと。)

            ┌異母弟:可美真手命【物部氏の祖】
①天火明命(邇芸速日命)┴②異母兄:天香語山命─③天村雲命─④天忍人命─⑤天戸米命─⑥建斗米命─⑦建宇那比命─⑧建諸隅命─⑨倭得玉彦命─⑩弟彦命─⑪淡夜別命─⑫乎止与命─⑬建稲種命【海部&尾張氏の祖】─⑭弟尾綱根命─⑮尾治弟彦連…

  乎止与命┬建稲種命─┬志理津彦命【海部氏】
      └宮簀媛命  └弟尾綱根命【尾張氏】─尾治弟彦連
          ‖
       日本武尊

※参考記事:「建稲種と子供たち」
https://note.com/sz2020/n/n469096965bc7

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■「尾張名稱発源之地」碑
【碑文】尾張名稱発源之地
     正五位勲四等 大島福造書
     昭和十五年十一月 北里村
     紀元二千六百年ヲ記念シ北里村青年團ヨリ支那事變ニ際シ
     第三師團軍役奉仕ニヨル淨財ノ獻金ト勞力奉仕ヲ得テ之ヲ建ツ
【案内板】
 小針(おばり)は、「尾張」名称発源の地と言い伝えられている。江戸時代に尾張藩が編纂した『張州府史』によれば、小針村は、古くは尾張村であって、尾張の名称は、この地から起こったとしている。 『尾張志』によれば、小針は、古代には「小冶田」、「小墾」、「尾冶」とも書いたという。
 小針の中心に「尾張神社」があるが、この周辺には、古墳時代を中心とする遺物散布地が濃密に分布していて、小針には、早くから大規模な集落が営まれていたと考えられる。また、かって土器田・鏡田・一色畑・政所などの地名が存在しており、古代社会の存在を物語るものと言われている。
 「尾張名稱発源之地」の石柱碑は、昭和15年11月に北里村青年団の献金によって建立されたものである。
   平成15年8月
                        小牧市教育委員会
■『尾張国風土記』
尾張国者経世穂曽積古之所領行也。神日本磐余彦天皇、東征之時、討伏湯貴首人、帰化之場海部佩室臣奉射天皇。天種子命以三角石弓及玉大羽矢射殺佩室臣討終於海部氏姓因此号其国謂於波里乃国謂尾張者、音之訛也。
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/95.html

 他には、大和政権の勢力範囲の東端、ここで「終わり」とする説や、『尾張国風土記』によれば、素戔鳴尊が八岐大蛇を倒した時、八岐大蛇の「尾が張っていて」、調べると天叢雲剣(後の草薙剣)が出てきたので「尾張」となったとする説がある。

■『尾張国風土記』「国号」(逸文:『和漢三才図会』巻71)
 風土記云。日本武尊、征東夷、還到当国、以所帯剣蔵于熱田宮。其剣、原出於八岐巨蛇尾、仍号尾張国。
(『風土記』云ふ。日本武尊、東夷を征して当国に還り到るゆえん、帯ばせる剣を熱田宮に蔵す。其の剣、原(もと)は、八岐巨蛇(やまたのおろち)の尾より出るに仍りて、尾張国と号す。)

 どちらも語呂合わせですね。そもそも八岐大蛇の尾から天叢雲剣が出てきて尾張国なのであれば、尾張国は愛知県ではなく、島根県でしょ?(実は、八岐大蛇は、天火明命が征した伊吹山の守護神で、天叢雲剣は、天火明命の後裔・尾張氏の剣であったが、大和政権に取り上げられていた(恭順の意を示して献上していた)剣だという。)

 谷川士清『倭訓栞』には、「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張り出でたるが如し。一説に小墾の義也。式、山田郡尾張神社あり」(知多半島が尾のように張り出していることから「尾張」であるが、「小墾」の意とする説もあり、『延喜式』に「山田郡 尾張神社」とある)とあり、『教授必携日本諸国名義考』にも「知多半島の南に延びたる、猶ほ尾を張りたるが如ければ、此の名があるならん、未だ詳かならず」とある。
■谷川士清『倭訓栞』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/863677/137
■『教授必携日本諸国名義考』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762385/10

谷川士清『倭訓栞』
をはり 尾張の国は、南智多郡のかた、尾の張り出でたるが如し。一説に小墾の義也。『式』、山田郡尾張神社あり。小針村にて、香語山の命を祭れり。又、中島郡に尾張大国霊神社とも見えたり。
○『続日本紀』に、「太宰府の帥、大弐、并びに三関、及び、尾張の守等、始めて傔仗を給ふ」と見えたるは、尾張国は、路四方に通じて、殊に非常を禁ずべき地なれば也といへり。
○「尾張」を「浘」と書くは、「尾閭」を「浘𤁵」とも書きしに据る也。
○熱田大宮司も尾張氏也。「承久の役」に範広、力を王師に勤め、南朝の時に昌能も亦た功あり。

※『続日本紀』「和銅元年(708年)3月22日条」
乙卯。勅。大宰府帥・大弐、并、三関、及、尾張守等、始給傔仗。其員、帥八人、大弐及尾張守四人、三関国守二人。其考選・事力及公廨田。並准史生」。

 伊邪那岐命(いざなぎ)が迦具土(かぐつち)神を斬った剣を、『日本書紀』では「十拳剣」、『古事記』では「十拳剣」、名を「天尾羽張」「伊都之尾羽張」と記す。素戔鳴尊が八岐大蛇を倒した時に使った剣は「十拳剣」で、八岐大蛇から出てきたのが尾張国の熱田神宮が保管している「草薙剣」。斎藤彦麻呂は、『諸国名義考』において、「十拳剣」も「草薙剣」も幅広の剣「尾羽張」で、その短縮形が「尾張」の可能性もあるとある。「尾張」とは、「草薙剣が保管されている国」という意味なのだろうか?

■斎藤彦麻呂『諸国名義考』「尾張」
 『和名抄』に「尾張(乎波里。国府、中島郡に在り)」。
 名義は『尾張国風土記』に「尾張国は、世を経て穂曽積古の領行の所也。神倭磐余彦天皇、東征の時、湯貴首人を伏せ給ふ。帰化の場、海部の佩室の臣、天皇を射奉る。天種子命、以三角の石弓、及び、玉太羽の矢を以て、佩室の臣を射殺し、海部の氏姓を討ち終る。此に因て、其の国を号して於波里(おはり)の国と謂ふ。「尾張」と謂ふは、音の訛也云々」とあるはいぶかしき事なり。古老の云ひ伝へなるべけれど、いかにぞやおもはるるなり。
 こは十挙(とつか)剣より負(おひ)し名なるべし、その故は、『古事記』に故(かれ)斬る所の刀の名を「天之尾羽張」と謂ふ。亦の名を「伊都之尾羽張」と謂ふとあるは、「草薙剣」にはあらねど、「尾羽張」とは、剣の先の巾広きを云ふるよし、『古事記伝』に見えたり。かヽれば草薙剣も、剣の尾の巾張りたるゆえにやしか号(なづ)けむ。天之波士弓、天之羽々矢、また、八坂瓊の玉など、みなひとつの名にあらぬをも合はせ思ふべし。

2.まとめ


①尾張氏が開拓したので「尾張国」
②「尾張国」を開拓した尾張氏の本拠地の地名「小針」から
③大和政権の勢力範囲の東端、ここで「終わり」
④八岐大蛇の「尾が張っていて」、見ると草薙剣が出てきたので
⑤地図を見ると、知多半島が「尾のように張り出している」ことから
⑥八岐大蛇を斬った幅広の剣「尾羽張」の短縮形

 按ずるに、伊勢湾岸文化圏の国々の国号は、中国同様、漢字1字で、
 木、磯、原、野、河
であったが、『風土記』の編纂に伴う和銅の好字2字令により、
 紀伊、伊勢、御原、御野(三野)、御河(美河、三河)
さらに、
 紀伊、伊勢、尾張、美濃、三河(参河)
に変わったのでは?

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