にんげんの屑

 ゴミ箱にごみを捨てるのが苦手だ。決まった場所に本を戻すのも苦手だ。洋服を洋服ダンスに仕舞うのもきらいだし、洗濯なんかもっといやだ。お風呂に入るのも嫌いだ。料理は好きじゃない。労働にも行きたくない。できることならずっと横になっていたい。思考にふたをして、たまにあふれてきたものを紙に書いたり、こうやってインターネットの片隅に放り出すくらいがちょうどいい。

 致命的に生きることに向いていない。

 だからといって私は私のことをクズ人間とは言わないのだ。本当のことを言うとじっさい悲しくなるし、自分のことを意味もなくけなしたくはない。そもそもこの表題は、クズ(の)人間ではなく、にんげんの屑である。

 いやいや、何が違うの? とお思いのみなさん。

 一般的には何も違わないが、ここでは人間から出る屑について書きたいと思っている。要するに、「代謝」して出るものだ。うんこからお菓子の包み紙から、古着、切った髪の毛まで全部だ。

 つまりこういうこと。私はにんげんの屑を処理するのが、得意じゃない。

 親知らずの歯が生えてくる予兆を感じてから「歯医者を予約しないと」とずっと思っていたのに、結局予約できたのはつい最近で、親知らずは野放図に伸びきって私の口の中で横たわっている。刺さる。痛い。

 いや、こういう「必要に迫られて、行動する」ことは意外とできる。いっぱいになって口を結んであるゴミの袋があったとして、さらに明日がゴミの日だとしたら、私はちゃんとゴミを出すことができる。寝坊したらおしまいだけれども。
 だから唯一、生活の中で「トイレに行くこと」だけは面倒に感じない。それは生活の必須事項だ。そうしないと私は怠惰のあまりうんこを漏らす成人女性になってしまう。歩けるうちはトイレに行くのを面倒くさがらずにいたい。

 ……なんだけど、どうしようもないのが一つあって、それが「おしゃれ」だ。
 私は職場でマスクをしているのをいいことにド級のすっぴん、ドすっぴんで仕事をしているのだけれど、化粧の必要性を全く感じないどころか、自分でもどうしようもないし「ヤバい」な、と思いながらルーティン化した私服を身にまとっている。だから私は三日周期で恰好が変わるだけののび太君だ。毎日同じ格好はしないが三日に一回同じ格好をしている。おしゃれをすることが好きな人が聞いたらきっとひっくり返るかドン引きするに違いない。
 でもどこにも出かけないし、多少おしゃれしたところで私は何も変わらないので、ドすっぴんのび太君成人女性は毎日そんな感じだ。なお、私服は二年前から「買い替えなきゃ……」と思っているにもかかわらず買い替えをしていない。代謝ができない。たぶん総入れ替えするのが正しいやり方なんだけれど、そんなにお洋服にお金を割きたくない。

 服にも化粧にも興味が無いのである。

 そんなんだから、某社謝恩会の場ではあんなふうだった。(ご覧になった方は思い出してみてほしい)しかもあれは全部母からの借り物で、母がコーディネイトしてくれて、自分で選んだものはひとつもないというありさまであった。あの格好が本当に私にできる唯一の盛装だったのである。信じられないことに……。

 母は「おしゃれは自分を盛り立てること、自分を大事にすること」と言って聞かせ、私もそれを納得しながら「ふんふん」と聞くのだが、帰省がおわると日替わりのび太君に戻ってしまう私は、頭の中ではわかっていながらなんの行動もできない人に成り下がる。

 やっぱり興味が無いことにお金を割きたくない。見苦しくなければいいや。みたいな。

 興味がないことに全くお金を割かないことについて、夫は何も言わないどころか興味がないようなので似た者夫婦だ。服の代わりに本や資料を増やしまくって床に平積みしている妻を容認してくれる夫のことは終生大事にせねばなるまい。これがミニマリストだったら極刑を食らっているに違いない。

 ところで本は本棚に仕舞うことが世の中的には正しいとされていて、だから私の本は、カラーボックス二つ分の本棚に納まりきるように「代謝」されねばならないのだが、ところがどっこい売れる本も手放す本も最近はないし、そもそも手放したくないので、床は平積みの本で埋まっていく。もはや落ちてくるし、落ちるから積んでいる。私の作業スペースの周りには所狭しとメモやら本やらが散らばっていて汚い。電子書籍という文明の利器があるが、性格上どうしても紙の本がいい。こういうところだけこだわる。

 部屋、汚い。わかっているんだけど代謝できない。ゴミをゴミ箱に入れることさえ億劫な夜がある。そんな夜はたいてい家事を放って寝るしかなく、その間ほとんどのことを夫に任せてしまう。

 本当にどうやってこの先生きていくんだろう。

 仕事のことで憂鬱になったり体調を崩したりしがちな私にとって、商業作家デビューは晴天の霹靂だった。そして、このどうしようもなく行き詰った人生の突破口のように思われた。ウキウキしていた。晴れ晴れしていた。でも、本を一冊だし終えた今はこう思っている。

 多少文章の才があるからって商業作家で食い続けることができるかどうかはわからない。ここは賞金稼ぎ達の縄張りで、私もその一人なのだ。

 次をどうしよう。代謝できずにいる。

 こうやって頭の中のことごとを書き散らしてみて、他人から見て絶望的に面白くなかったらどうしようみたいなことを、今も考えている。文章の巧い人の書き散らしって、どういうわけか面白くて読まされるものが多い印象だったから、私のこれもそうでありたいのだけれど、どうだろう。

 どうもこうもないか。

 要するに、代謝できない私は、致命的に生きることに向いていない。そういうことだ。

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