見出し画像

【短編】歯痛

 病んだ歯を抜いたら歯の根元に「怒」と小さく書いてあり、私は何者かに「怒」を蝕まれていたことと、「怒」を失ったことを同時に知る。

「よくみてください、『怒』です」と歯科医が言った。私はまじまじと血まみれの「怒」を見つめた。

 確かに歯軋りで堪えることの多かったかつての激怒は、私の脳天を貫き、足先や手指の先まで行き渡っていた。私は爪をガリガリ噛んだり、飲んだ缶コーヒーの容器をぺちゃんこに踏み潰したり、やはりギリギリと音がなるほど奥歯を噛み締めることによってやり過ごした。

 でも、もう怒はないのだ。私の中に無いのだ。歯軋りのしすぎによる頭痛もなければ、激情にまかせて指を深爪にしてしまうこともない。私は安堵すら覚えた。非常に穏やかな気持ちだった。

「しばらくは痛みますよ」
と歯科医は言う。私は頷いた。口の中は血の味がした。
「化膿止めと痛み止めをお出ししますので、処方箋に従って飲んでください」
「はい」
「それから」
 歯科医は血まみれの「怒」に目をやった。
「お持ち帰りになりますか?」


 歯科医の言った通りしばらく傷口はジクジク痛んだ。私はその度に痛み止めを飲んだ。

 上司の理不尽からくる残業の時も、後輩に舐められた言動で嘲られたときも、いわれのないミスを押し付けられた時も、怒の跡地は痛んだ。痛んだけれど、それは歯痛の一種であって怒りではなかった。私は粛々と言われた通りに仕事をし、言葉を受け流し、そして残業の前には必ずタイムカードを切った。

 怒りのない生活がこんなに楽だとは思わなかった。私は綺麗に洗った「怒」を見る。虫歯になって穴の空いた歯は少し黄色くてエナメルが禿げていて、醜い。だけどそれが私の「怒」だった。百均で買った、丸い円筒形のケースに怒を入れてカラカラと鳴らすと、私の口の中に空いた穴がズキズキ痛んだ。

 いったいいつまで痛むのかを歯科医は言わなかった。また、痛み止めをもらいに行かないといけない。

 私はスマホを開く。金を貸してくれという親の長い長いメッセージを見る。また歯の跡が疼く。


 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?