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阿部和重「アメリカの夜」
作家志望の芸人YouTuber斉藤紳士さんが、群像新人文学賞の好きな作品トップ5という動画をあげていて、そこでこのアメリカの夜が紹介されていた。
「何かになりたい青年」の本であること、タイトルが「アメリカの夜」であったこと、この2つに惹かれた。阿部和重のことは知らなかったが、トリュフォーのアメリカの夜をタイトルにするということは、まぁ映画が好きな人なんだろう。じゃ、気が合いそうだ! ということになった。
書き出しのブルース・リーの話が必要かは微妙だが、なぜ映画好きが本を読むようになったのか、という経緯に移ったあたりから、阿部和重への好感が湧いてきた。僕が普段から思ってるけど誰にも話したことないことを、うまく言葉にしてくれていた。最も良い部分は、映画が撮りたいのに、映画を撮るという行動に移さず、読書に逃げているというところ。これが主人公の軸になっているから、大体のことは共感できる。新人賞としてふさわしいし、こういうことを眉唾させずに読ませるのは、意志が固い証拠だ。熱量があって、とてもいい本だと思う。
しかし!
阿部和重が村上春樹ほど有名になっていないという理由に、「正直に喋りすぎ」という点があるだろう。なんで村上春樹と比べるのか? と言われると、僕はなんでも村上春樹と比べてしまうようになっているから。
正直に喋るというのは、つまり身の回りの出来事をひねらずに書くということ。今回の場合、バイト先のSホール、映画人の武藤、そして読書中心生活の唯生(ただお)の日常や心理描写。
心理描写は良いことだ。なぜなら僕はヘッセよりもサガンの小説に共感するし、単純に面白いと思うし、何度もサガンを読み返したいと思うから。ヘッセは思わない。
しかもサガンは、パリの日常を書くという点では、阿部和重とテーマはさほど変わらない。じゃあ何が違うかと言うと、舞台がパリであることはもちろん、文体のひねりである。僕がサガンをいつまでも読んでいられるのは、サガンが誰よりも文体にこだわる人だから。あの逆説的で極端でシニカルな文章を僕は見たいのだ。
阿部和重には共感できるのだが、あまりにも身近すぎるというか、若い〇〇志望(下北にいっぱいいそうな)のあるあるでは、僕の想像を超えてこない。作家には僕を見下して欲しいのだ。「この人、どこか違う!」と思わせて欲しいのだ。もっともそのジレンマを阿部和重はこれに書いているわけだが。
以上、関係のない村上春樹やサガンを持ち出して批判してしまった。しかしこれは、阿部和重の考えていることに共感できたからこその批評である。批評されるとは素晴らしいことなのだ。
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