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【日本の酒場史】関西のチューハイが甘い理由

狭い日本といっても、稚内から石垣島まで直線距離で2,800キロ。ヨーロッパの地図に当てはめれば、デンマークからポルトガルを通り過ぎ、モロッコに達するほどの距離があります。そのため、各地の文化や気候の中で様々な郷土料理がうまれてきましたが、お酒にも土地土地によってことなる「郷土酒」が存在します。

さて、東京の郷土のお酒といえば何になるでしょうか。太田道灌が江戸を開発した頃は、まだ米を原料にした日本酒しかありません。徳川家康が江戸に入ると、「灘の下り酒」として酒処・灘(神戸)から酒を運ばせ、現在の中央区新川で水揚げし、江戸市中に灘の酒が広がりました。将軍や幕府の重役が飲む「灘の酒」は、関西からの長い船旅の中で杉樽の香りがついて、本場「灘」で飲むものとは別物になっていました。これが現在の樽酒で、ある意味、江戸ならではの味といえます。

灘の下り酒は、いまも首都圏で親しまれています

対して、市中に暮らす町民は、変わらず江戸近郊から水運で運ばれた日本酒を飲んでいました。落語にでてくるような長屋暮らしのヒトが大家さんに家賃を滞納してまで飲んでいたお酒は、きっと相模や武蔵、下総、上総の国でつくられたお酒だったのでしょう。いわゆる「くだらない酒」(転じて、取るに足らないの語源となる)です。

西洋文化到来で、郷土酒誕生

では、どのタイミングで首都江戸・東京にローカルな酒類飲料ができたかというと、ひとつが西洋から入った肉食文化に付属してきたブランデー、ワインを真似て作ろうとした「文明開化」のタイミングです。大阪では、やがてサントリーになる鳥井商店がウイスキーの製造に取り組みだし、東京では浅草の神谷傳兵衛が、国産ワインやブランデーの生産に乗り出します。

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