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神について

アインシュタインが遺した「神は弱い者が作った幻想だ」みたいな発言がここ1か月くらいずーっと頭にこびりついていて、クエン酸でも重曹でも取れなさそうな気配です。激落ちくんでも落とすことのできないほどの存在感でした。

私の基本的なスタンスとしては、神様仏様と言ったものにたいして強い信心を持つほどではなく、初詣は神社、お彼岸とお盆はご先祖様のお墓、そしてクリスマスは普通に家族と過ごす、その程度のものです。

そんな私でも神頼みと言われるようなことをすることはあり、例えば試験の合格とかですけど、まぁ、ぶっちゃけそれは余興くらいの気持ちなんだよな。

いや、違う、このタイトルと、この書き方で、「私は強い人です」と言いたいわけじゃない。

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アインシュタインはなにを思い、この言葉を遺したのか。

私が上述した例で言うと、自分の力ではどうにもならないものに対して、良い結果が出るのを期待したい時に、神様の存在を感じるんだよな。

いや、ちがうでしょ。

試験、合格すると良いなぁーとか、人前でうまく喋れるといいなぁー、とかさ、基本的に自分の力でしょ。

ん、むしろ、自分の力を100%発揮できなかった(と気づいている)から、神様にお願いって行為に走るのだろうか。

もしくは、自分の力ではどうにもならないこと。

例えば、好きなサッカーチームが、強敵に勝つ、とか。

例えば、ものすごく大切な人が、不治の病に侵されてしまった、とか。

重たい話だな。

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ニーチェの、神は死んだにも通じるのかな、詳しくは分かりませんけど、ある特定の宗教がベースとなって作り上げられた文化をぶち壊し、自分の感性を信じて生きることはとても大切なことのように思えます。日曜日は静かに暮らす、とか、代表的なものですけど。

人に迷惑をかけない範囲で、という枕詞が条件になりますが、基本的に自分の生きたいように生きることができるこの世界では、本当は、何も制約なんてないはずなんですよね。

そのように生きよ、という意味でニーチェは「神は死んだ」発言をしたのかなと勝手に考えています。

ですが一方で、神様に縋る心持ちの人がいることは否定しませんし、そう考えることも上述した「自由に生きよ」の範疇なのだと思います。
私は神に縋って生きる。良いことも悪いことも、全部神様が振ったサイコロのせい。対岸の火事も、世界で起きている様々な問題も、神様のせい。そう考えることだって自由ですよね。

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そして、その考えを知った上で、自分はどう生きたいのかと自問する訳じゃないですか。誰にも邪魔されたくない。自分の生きたいように生きたい。好きなものを食べ、酒を飽きるほど飲んで、寝たい時に寝て、好きな人とセックスして、文章を書きなぐって、そんな感じで、欲望にまみれて生きたい。それは人間の本能なのかもしれません。けどそこには理性というものがいるから、彼の存在を忘れる訳にはいかない。

理性というのは、枕詞である「人に迷惑をかけない」という、一般的なルールを守るために必要不可欠なものだと考えています。
それがあるから、人は共存できているし、まぁ、私は肯定的に理性を捉えているから、多分、普通に生活していくタイプの人間なんだろうな。

自由に生きること。

人に迷惑をかけないこと。

この二つは共存できないと考える人がいるかもしれません。けど、よーく考えてみるとそんなことは決してなくて、人に迷惑をかけない範囲で自由に生きるというやり方は全然可能で、そしておそらく、それがマジョリティとなって社会が形成されているのだろうなぁ。

社会に溶け込むって言うのは、そのマジョリティとして定義されている世界を肯定的に受け入れることのできる人間ならできることなんでしょ。

マジョリティに染まりたくないね、って強がる人もいるよね。染まりたくない、と考えるのだって自由だからさ、別に否定はしません。マイノリティとして生きたいと信じることだって自由なんだから、いいんだけど、けど、この世の中はマジョリティを基準として作られているから、正直生きづらくなるよね。けどそれはマジョリティに染まりたくないって貫いているからであって、その弊害(って言っちゃうと語弊があるよな)なんだから、そこは甘んじて受け入れるしかないのかな。

とかね。知らんけど。

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