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私たちはVtuberをどのように見てるのか

演じるということ

アニメキャラクターは創作物である物語の登場人物で、筆者が自由にどのようにも性格や容姿を決めることができる。当然に生身の人間であっても、演者という形で同じことはできるが、あくまでそれは「演じている」にすぎない。
そして私たちは、その演じているキャラクターを好きになったり、はたまた演じている俳優を好きになったりする。といえば、アニメキャラクターであっても、同じように演じている声優がいるわけで、なんら変わりない。
Youtuberはどうだろうか。今でこそ違うが、昔は素人が個人でやっていた活動で、そこに「演じる」という形はほぼなかったのではないだろうか。ほぼその人の人間性というものが現れていたことが多かった。当然演出としての時もあっただろうが、キャラクターを演じるとまでは言い難いだろう。

Vtuberは演じている?

では、Vtuberはどうだろうか。アバターと呼ばれるガワはあるものの、基本的には台本がない中で進んでいくものであり、何かを演じるとまで言えるのだろうか。
例えば、RP勢や出雲霞のようなパターンは演じていると言ってもいいかもしれない(出雲霞については特殊なので、この言葉が適当かどうかわからないが...。)が、それ以外は?

Vtuberの見方が三者三様

つまるところ、Vtuberとリスナー、リスナーとリスナーの間で起こる摩擦の一つの要因に、この曖昧な立ち位置のVtuberの見方があると思う。
キャラクターとして見るならば、その多くの人はVtuberと魂を切り分けて考えるだろうし、Youtuberのように演じていないとして見るならば、Vtuberと魂は一致し同一とみなすことができるかもしれない。
そういう違いが、魂を知りたい、前世を知りたい、と思う人とそうでない人がいるところで、実はこれはアニメキャラクターと声優の関係にも同じことが言える。その昔はキャラクターのイメージを崩したくないという「同一とすることへの拒否」から、声優として切り分けられるほどの活動や様子に変化していったことが、近年の声優が前に出る時代への変化の理由と言える。

月ノ美兎と御伽原江良と出雲霞

この3人を比べると、大変面白い。

月ノ美兎は未成年だが、未成年と間違えられたり、未成年が入れないお店の話をしたり、これはどちらかと言えば、高校生というガワを被ったYoutuberであり、Vtuberと魂を切り分けて考えるというよりかは、同一として考えるパターンである。
御伽原江良は、手芸サークルに参加している大学生だが、その設定はほぼどっかへ飛んでいっている。こういう意味では委員長とあまり変わりがないが、こうなった理由も深い。デビューして1か月、まだ設定を保っていた頃、地声配信を行ったことで、炎上したのだ。これはファンの望む「切り分けて考える」が覆され、御伽原江良という名で魂が出てきてしまい、それをよく思わないリスナーが多くいたのだ。
出雲霞はAIで、RP勢、劇場型配信と言われていたが、実際はただのフィクションストーリーではなく、出雲霞の魂の経験を元にしたノンフィクションストーリーであった。そういう意味では同一として考えるパターンであったが、ある時声のトーンを高くしたところ、賛否両論の炎上に近い形で騒ぎとなった。この多くは、当時のリスナーからしたらRP勢として「切り分けて考えていた」ものが突然にその演じ方を変えたことに対する反発であった。しかし引退時、出雲霞はVtuberの引退としては前代未聞の「(ほぼ)魂が出てきて話す」という配信を行い、これはほぼ好印象で埋め尽くされた。「切り分けて考えていた」ら実は「ほぼ同一だった」ということが語られつつも、「ストーリーの上で演じていた」といういわばハイブリッドな状態である。

結局Vtuberはどう見ることがいいのか

そんなの人によるという何の解決にもならないまとめとなってしまったが、この「人」とはリスナー側だけじゃなく、Vtuber側もである。そのVtuberがどっちの立場で配信するのか、自分はどっちの立場で見るのか。
ただ、自分の見方をVtuber側に強要するのは、このVtuber業界では悪手であろう。

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