なんだかそんな日。

 朝から晩まで、何かが噛み合わない日を過ごしたことはあるだろうか。
 僕の今日は、まさにそんな一日だった。

 朝は寝坊したけれど、なんとか定刻までには会社に着くことができた。ホッとして腰のあたりに手を当てると、自分がベルトをしていないことに気付く。社内を歩いているうちに徐々にスラックスがずり落ちてきて、時々、キュッキュッと正しい位置まで持ち上げてやるのだ。

 節約中の僕は、遅刻しそうな朝でもなんとか冷凍食品を詰め込んで、お弁当を作った。やっと一息つけると思ってお弁当箱をロッカーから取り出すと、箸入れの中が空っぽだった。悲しい気持ちで備品として置いてある割り箸を手に取り、電子レンジでおかずを温めたが、温めすぎて上手く掴めず、いつもの定位置に移動するまでに変な小躍りをして同僚に笑われる。

 今日という日は、まさに僕を小馬鹿にするために存在している気がする。そう思うと、業務を行う僕の作業効率にも影響が出てきて、気分の乗らないちょっとした残業をこなす羽目になった。

 夜8時過ぎ。道ゆく人のほとんどは、これから家に帰る人たちだ。
 人混みが苦手な僕は、あまり人のいない道を選んで遠回りをして家に帰る。今日は嫌なこと続きだったから、このまま晩飯を食べて眠るだけなのも口惜しくて、家の近くにある広い公園に足を運んだ。

 だだっ広い公園は、日中は暇を持て余した老人たちや、それなりに充実した日々を過ごしていそうな飼い主とペットが散歩をしており、時折、爽やかに風を切るジョギング中のスポーツマンたちとすれ違うことになる。

 太陽が昇っていれば、僕らを癒してくれる木々たちも、月の存在が優位に立つと、突然に不気味な陰を落とす。

 だから、この時間に公園を歩いても、誰にも邪魔されたくないごく一部の変わり者を除けば、ほとんど誰もいない。

 今日は満月だ。気持ちの良い空気の流れが、沈んだ心を少しずつ持ち上げようとしてくれている。その好意に甘えるように、ゆっくりと歩みを進め、空と地上のコントラストを楽しんだ。

 ふと、前方を見ると、公園の真ん中を横切る川沿いのベンチに、誰かが座っていた。こちらを向いている様子ではなかったから、つい、目を細めて相手の横顔を観察する。

 上下のスウェットを着た女性が、自宅にいるのかと思うほどくつろいだ様子で缶ビールを煽っている。後ろ髪を団子状にまとめて、バンスクリップで留めている。

 これはたぶん、そっとしておいた方がいいだろう。そう思った俺は、相手に気付かれないよう通りすぎるつもりだったが、近くまで来ると相手の方から声がかかった。

「ねぇ、一緒に飲まない?」

 その声には聞き覚えがあった。

「達也でしょ?早く来なよ。」

 僕の方を振り返ったのは、近所に住む同級生の七瀬の顔だった。

「なんだよ。びっくりさせんな。」

「あんたこそ、スーツ着たままこんなとこ来て、今日リストラされましたぁっていうサラリーマンみたい。鼻歌を歌ってなかったら、不審者かと思うところだよ。」

「お前だって、パジャマみたいな格好して、家じゃないんだから、もっとちゃんとしろよ。」

「家だよ。この近所は全部家。あんたみたいな根暗には分からないと思うけどね。」

 七瀬はそう言って、飲みかけの缶ビールに目を落とすと、缶ビールを持った手を、缶の底で円を描くようにぐるぐると回していた。

 彼女の隣に座ろうと、ビニール袋を挟んで向かい側のスペースに移動する。そんな僕を横目に、彼女は残り少なかったのだろうビールを飲み干すために、高々と缶を持ち上げる。

「ぷはぁ。」と大げさに声をあげる七瀬の姿に思わず笑みが溢れた。

「何かあったの?」

「え?」

「だって今、私の顔見てアホヅラ晒してたよ。」

「お前が先にアホヅラで酒を飲み干してたんだろ。」

 わざと怒ったような声を出す。その声に呼応するように彼女の笑い声が重なった。
 履いていたサンダルから足を引き抜き、ベンチの上で体育座りになった彼女が、僕に問いかけてるのか、独り言なのか、分からないような声音で囁いた。

「なんか今日、一日中緊張してましたぁって顔してる。一日中無理して笑って、一日中自分のことを閉じ込めて、ここでやっと自由になったんだぁって顔。」

 「分かる?」と言いながら、七瀬が2本の缶ビールを手に取り、片方を僕に渡す。「飲んでいいよ。」と言った彼女は、僕の会話で自由になれたのだろうか。

「七瀬はなんかあったのか?」

歯切れの悪い調子で彼女は答える。

「んー、まぁね。あるような、ないような、微妙な感じ。寝る前にちょっと栓を抜いておきたいなぁ、みたいな。」

「それにしたって、こんな夜中に、女子一人で不用心じゃないか。」

 何気なく言った一言が、七瀬の怒りに少し触れたようだった。さっきまでどこか焦点の合わなかった彼女の目が鋭くなり、隣にいる僕のことを睨みつける。

「それ、その話題、今日の私の地雷だから。」

「なんだよ、結局なんかあったんじゃないか。」

 僕は、缶ビールのタブを引いて、一口だけ酒をあおった。

「何にもないよ。本当に、何もない。いつもと変わらないやり取りがムカつくの。よく分かんないけど。」

 彼女も一口、ビールを飲み、言葉を続けた。

「私が女だったら、夜中の公園が危ないなんて発想、出なかったでしょ。」

 言われて、ハッとする。もし七瀬が男だったら、近所迷惑な奴だな、ぐらいにしか思わなかっただろう。
 膝を引き寄せて、少し顔を埋めていた彼女が、小さく溜め息を吐いた。

「そういう、いつもと変わらず、私だから起きるいろんな出来事が、無性に腹立つ日だったの。」

 だから、月を見ていた。そう語る彼女に、予期せず共感する。

「俺も、そんな日だった。完璧じゃない自分にすげぇムカつく日。」

「じゃあ、これで乾杯する?」

 七瀬がビニール袋から取り出したのは、パック入りのお団子だった。彼女は、手に取ったパックを僕たち二人の間に並べながら、説明する。

「今日買いすぎちゃったんだよね。一人じゃ食べきれないからどうしようって思ってたけど、二人分だったのかもって気がしてきた。」

 はにかんだ笑顔でこちらを見上げる。僕は、学生時代にしていたように、彼女の髪を撫で、軽く小突く。

「いや、俺にはこれじゃ足りないかもな。」

「あ~、だから下っ腹出てきたんじゃないの?」

「お前こそ、昔より…」

「あ、女子にそういうこと言うの禁止!」

 弾けるような笑いが響いた後、僕らはもう一度、乾杯した。

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