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母親の残骸もしくは残穢

母親の残骸①

結局のところ、私は母親が怖いのだ。
父親と話してそう結論を得た。なんだかんだああだこうだ来た連絡を無視しない、連絡をやめろと言えない理由を並べ立てたところで、私は母親が怖いのだ。
まだ自分の中にいる母親の幻影に支配されている。親と別れてから五年ほど経つ。もうきっと、私の方が力も強くて口も回るのに。
怖いから、連絡を無視できない。怖いから、自室に残る母親の本棚を処分できない。お皿を捨てられない。執拗に送られてくる手紙を律儀に読む。無視できないけど嫌な気持ちになるのはわかっているから、送られてくるメッセージに怯える。母親が地元(つまり私の暮らしているところだ)に戻ってくるかも、という情報に怯える。今までは「遠方だから」で断れていた全てがそう出来なくなるから。大学で、最寄り駅で、家の前で、待たれているかもしれないから。連絡ひとつよこさずに子供を待ち伏せるということを、なんの悪意もなくやってのける人だから。

母親の残骸②

八つ下の妹がいる。母親と同居している。この前、母親のLINEに苦言を呈したところ、妹から「八つ当たりされるからやめて」「言うこと聞いて」とLINEが来た。高校はこっち(私の家)から通うでしょ?と尋ねたら、「お母さん次第かな。私がいないとダメだと思うから」と返事が返ってきた。そういうことだ。母親がべったり妹に寄りかかっていて、妹はそれを支えなきゃ、と思い込んでいる。不健全な関係だ。そういうことだ。それもあって、母親に強い言葉を使うことが出来ない。我ながら八方塞がりだな、と思う。

母親の残骸③

カウンセラーさんと話している最中、増えるわかめみたいなものなんです、と言葉が漏れて、我ながら納得した。
増えるわかめ以外で言うならば、熾火、だろうか。
私は毎日毎日長い時間をかけて母親を風化させようとしている。大きい存在を小さくしないことには箱にしまい込めもしないからだ。尖った石が丸くなるように、火が種を失って徐々に勢いを無くすように、わかめが乾燥して小さくなるように、私が小さく小さくしているタイミングで、母親は連絡を寄越す。
狙っているわけではないのだろう、当たり前だ、母親は自分が娘の心の傷になっている自覚がないのだから。「ちょっと長い反抗期」「照れ屋」程度に思っている。気色悪い。
やっと小さく出来たタイミングで母親が連絡を寄越す。それは増えるわかめにとっての水であり、熾火に対する火種である。私はその手紙に不安を覚え、悲しみ、怒りを滾らせる。そうして芋づる式に何もかもに飲み込まれて、過去の傷を自らほじくり返す羽目になる。破滅だ。母親さえいなければ、といつも思う。

母親の残骸④

母親がもっと酷ければよかったのに。
いつも思う。憎み切りたいのに、母親に良くしてもらった記憶が邪魔をする。そうだ、怒りさえしなければ良い母親だった。妹が産まれる前までは優しい母親だった。父親は「(母親の名前)は(私の名前)を愛しているんだよ」と言う。愛されているんだと思う。愛とは執着だから。受け手に拒否された愛は暴力だ。私は母親の愛をストーカー、として認識している。電話を何百件もかける。同じメッセージを何通も送る。連絡先をブロックしても妹を通じて連絡を寄越す。断られても手紙を送る。荷物を送る。連絡もせずに無断で待ち伏せている。行為だけ並べればストーカーだ。
そこに血縁があるから見逃されているだけ。そこに愛があるから他人には母を悪くいうことを咎められる。
そう思って、いつも思い直す。妹が産まれる前から母は暴力を振るったし、怒ってない時でも私が母の知らない言葉を使えば怒り出した。毒親、と呼ぶに支障はないだろう。虐待、というのにはいつも躊躇ってしまうが。私さえ母親を、家族を諦めれば楽になるのだ。
今でも、無理なこととは分かりつつ、関係が良好になることを望んでいる。無理な話だ。

母親の残骸⑤

母親は私が彼女の知らない言葉を使うと途端に怒り出した。でも私は彼女が何を知っているかを知らないから、地雷原を歩くような会話になる。綱渡りだ。
しかもその怒り方というのが最悪で、「私の知らない言葉を使うな」から始まり、「賢しらぶって」「そんな言葉は存在しない」「意味がわからない」「そんな言葉を使うお前がおかしいのだ」、ときて、最終的に「お前は頭がおかしいんじゃないか」に大抵帰結する。
今思うと、母親は所謂学歴コンプレックスみたいなものを持っていたのだろう。だから、知らない言葉を使うと「馬鹿にされた」に直結して、怒る。自分の中で学がないことに引け目、コンプレックスがあるから、馬鹿にされたと思うのだ。
母親には姉がいる。頭がいい。英語で大学に行き、今も英語を使って働いている。怒る時は理詰めの人だ。母親は料理学校を卒業している。咄嗟に考えをまとめて喋るのがあまり得意ではない。私は母を馬鹿だと思わないし、姉(つまり私から見た叔母だ)も母を馬鹿にしたことはないとは言うが、姉と自分を比べているのだろう。

母親の残骸⑥

母親にはなにかしらの発達障害があるのではないか?と私はずっと疑っている。なにせ注意散漫だ。もう小学生の頃から、母親の記入する書類には異様に漏れが多いことに気づいていた。先生から「ここ書いてないからお母さんに渡して書いてもらって」と言われることが多かったからだ。そのうち、書類は自分で書いて、母親に最終確認だけ任せるようになった。印鑑を持ち歩くようになった。母親と仲が悪くなってからは、全部自分でやるようになった。母親に事務作業を任せたことはない。高校、大学への出願や事務手続きは自分でやり、自分でできないことは父親に頼んだ。母親に頼むとミスは多いし指摘するとキレるし、碌なことがないから。電車の乗り間違えも多かった。ただ、それしかない。私の母親に対するレンズで、小さなミスが歪んで大きく見えているのだろうか、とも思う。発達障害であれば私が納得出来る理由になるな、とも思う。複雑だ。

母親の残骸⑦

今でも夢を見る。顔は分からない。ただ、自分の上にある影になった母の顔と、怒鳴り声だけが再生される。ただでさえ人間の記憶というのは脆くて、その上母とは四年以上合っていないものだから曖昧なものだ。姿かたちは曖昧で、そのなかに鮮明な暴力と暴言だけが残っている。記憶が薄れて細部がおぼろげになっても、強い大きな衝撃としてこの身に刻まれているのだ。
だいたい見る夢の内容は二パターンに固定されている。母親が物を壊しているのを泣き叫んで止めているところか、母親に暴力を振るわれて床に伏して頭を守っているところだ。前者に関しては大事にしていた本や教科書、携帯、ゲーム機エトセトラを壊され続けてきたので、それだろう。とくにゴーストハントに関しては泣き叫んだ記憶もまだ鮮明にある。読むとフラッシュバックして泣けてくる。
後者に関しては、これも挙げようとおもったらキリがないが、まあ、首を絞められた時のだろうな、と思う。その辺は既に母親が手を挙げることが多くなってきていた時期だが、明確に、ライン越えだ、と思ったのだ。いつか、母親が喧嘩の後冷静になって言った言葉を覚えている。「本を投げる時でも一応角が当たらないように気をつけて投げたりしてるんだよ」と。
今思えば子供の腹に向かって(角ではないとはいえ)本をぶん投げる母親はヤバいのだが、当時はそうなんだ……優しいなあ、と思っていた。イカれている。
その言葉があってからの、首。確かその時に「産まなきゃ良かった」「死ねばいい」みたいな聞くにたえない言葉も聞かせられたので、なるほどな、と思った。
元から「頭がおかしいんじゃないか」くらいは平気で言う母親であったが、なるほど、もう母親にとって生命を守る対象ではなくなったのか。どんなにキレててもそれだけはやらない、言わないと思っていたが、これが本音なのだろう、と。そこからは早かった。いくら取り繕われても出た言葉と手は下ろせない。でも、今でも夢に見る。夢の中でも怒鳴られて、ああ、嫌だなあ、と思う。はやく自分の中からなくなって欲しい、と思う。未練がある。

幕間

読み返して、母が居なくなってから五年、と書いてあるところと四年、と書いてあるところをそれぞれ見つけた。何年経ったのだろう、と思う。確かめたくもないが、母が居なくなった日は、妹と、3匹のかわいいかわいい猫たちがいなくなった日でもあるのだ。

母親の残骸⑧


不登校だった。中学三年生の後半から大学入学にかけて。
当時はなんで学校に行けないんだろう、学校は楽しいのに、と思っていたが、今思うと完全に母親の影響だろう。よく考えたら私は高校の先生に「母親と縁を切って学校を辞めたい」とまで言っていたのだった。それをなだめていた当時の担任には本当に頭が上がらない。
私は勉強は好きなので、受験期だけはわりとイキイキしていた。友達との勉強などで家を出ている時間が長くなるし、部屋に篭っていても怒られない。だから、うっかり回復したのだと思って全日制に入学してしまった。
それが失敗だった。入って半年も経たないうちに朝起きてから電車に乗って、学校についてもぼろぼろぼろぼろと三時間も四時間も泣き通すような生活が続いた。保健室には「あんまりここに居ないで」と言われてしまったので、図書館にいた。図書館の人目につかない隅っこで、時折本を読んで気を紛らわせながらしくしくしくしくと泣いていた。先生に休みの電話をしようにも泣いてしまって喋れないような状態で、でも家からは蹴り出されていた。母は世間体を気にする人だった。自分はメンクリに通っているのに、私には通わせようとしなかった。「自分で選んだんだから一年間は我慢しなさい」と高校に通わせ続けた。私は不登校になってすぐ通信への転校を言い出したので、その段階で転校できていれば学年はズレなかったのに、と今でも恨んでいる。
そうやって無理やり通い続けた結果、首をつりかけた。具体的に言うと、縄を買って部屋のいい感じのとこに結んで、首を通してみて、でも母親のせいで死ぬのって馬鹿らしいな、読みたい本もまだまだあるし、と思って、やめた。縄はお守りにすることにした。母親はそれを知ってか知らずか言っていた。「(私の名前)が自殺してないか心配で心配で私が死にそうだ」「お前のせいで私の体調が悪い」と。
ま、そういう母親ということだ、と今では思う。今では思うが、忘れられない。思い出す度に新鮮に傷つく。妹も今不登校だ。「(私の名前)が不登校だった経験を活かして、妹には無理に行かせない」らしい。私はあんなに死ぬ思いをして通わされていたのに。妹に何一つ非はないが、恨めしい、と時々思う。私は大学に入っても不登校になりかけているのに。

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