母と虐待と言葉の簒奪

何回か言っているが、わたしが母に虐待だ!と言った次の日から母は「わたしは母に虐待されていたのだ」と言い出すようになった。それまで何度も祖母宅(母から見た実家)に泊まったり、逆に祖母に泊まってもらったり、時には愚痴を聞いてもらって、わたしの面倒を見てもらっていたのにも関わらず。素直に、ああ、良くない言葉を学習させてしまった、と思った。
もしかしたら母親には、わたしの「虐待」という言葉が、置かれていた状況の責任を他人に転嫁する便利な言葉のように見えていたのかもしれない、とも。
本当に、母親には「虐待」という言葉が状況をほかのことに擦り付けられる便利な言葉に見えていたのだと思う。本人がそう思っているかは分からないが、少なくとも、間近でその言葉を聞いていたわたしにはそう思えた。
娘に暴力を振るうのも自分が虐待されていたから。自分が娘を褒めるのが下手なのも虐待されていたから。自分の精神が不安定なのは虐待されていたから。姉のことは迎えに行ったのに私のことは迎えに来てくれなかった。布団叩きで尻を叩かれた。虐待だ。虐待されていたのだから、仕方ないのだ。私を虐待して私をこんなにした母親が悪いのだから、娘に暴力を振るう私に咎はない。
そういうことだろう。ちなみに母親が羅列する「虐待」の八割は祖母に聞いても叔母に聞いてもそんな事実は無いようだった。もちろんこの2人の記憶だけが正しいわけではないが、母親の虐待された記憶は捏造や改竄を多く含むだろう。
なにせそもそも、わたしが中学生になって母親に「虐待だ」と言うまでそんなこと欠片も言ったことはなかったのだから。
そもそも、親と何かしらの軋轢がある人は分かると思うが、自分を虐待してた親となんて泊まりはおろか連絡すら取りたくないし、顔だって見たくないだろう。しかし母親は年金暮らしの祖母にもうかれこれ50万程の無心をしており、また、祖母宅に私の妹を預ける際は家の前に妹を置き去りにして去っていく、という最悪ムーブをかましている。親として、というか人間として最悪だ。会いたくないなら頼まなければいいし、頼みたいなら「お願いします」の一言でもあって然るべきだろう。
話はズレたが、もともと悲劇のヒロインムーブがけたたましい(悲劇のヒロインムーブがけたたましいとは変に思えるが、こう表すのが一番合うのだ)母親であったので、その理由付けとして虐待をされていたから、という言い訳は余程魅力的に映ったのだろう。
一人でやってもらう分には構わないのだ。わたしに関わってきさえしなければ。ずっとそう思っているのに、親というものは最悪を更新し続ける。最悪だ。
「虐待をされていたから貴女にも暴力を振るってしまったし、『虐待された』という貴女も自分の子供に暴力を振るうだろう」、という謝罪と悔恨に見せかけた、誕生日を祝う言葉と同列に並べられた呪いを、私はいまだ忘れられずにいる。


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