器と聖域

 お菓子作りが好きだ。母がまだ家にいた頃、母の聖域である台所の中で、お菓子作りは唯一わたしも手を出せる領域だった。

 両親が離婚して、母が妹と猫たちを連れて家を出て行って、そうしたら料理が好きになった。もともと苦ではなかったが、帰りの遅い父親を待って夜ご飯を一緒に食べるのが楽しくなった。祖母の味を再現できるのが楽しく、また、作れば作るほどかかる時間は短くなり、味は美味しく、見た目は綺麗になっていくのが嬉しかった。

 料理が好きになって、そうしたら器も好きになった。この料理はあのお皿に、あの料理はそのお皿に、そうなったら使うお皿と使わないお皿が見えてきて、逆に料理をのせたいお皿のイメージも湧くようになった。 母親の痕跡を払拭するように、食器棚の中の使わないお皿を捨てた。母親がいた頃は一度も自分の家だと思えなかったこの家が、ものを入れ替えて、痕跡を拭い去るにつれて自分の家になっていく。

 器というものはすごい。料理を見れば載せたい器が浮かぶし、器を見れば載せたい料理が浮かぶ。逆に、器を見たときに「これを載せよう!」と思うものがなかったら買わない方がいい、と学んだ。
 今、自分で買ってよく使うお皿は、これを載せたい!とパッと鮮明に浮かんだものばかりだ。
 逆に、父親は器に頓着しないたちで、百均のプラスチックのどんぶり、しかも劣化して色が抜けなくなってしまったようなヤツを平気でなんにでも使う。

 箸の先が欠けたとて気にしないし、食卓で一緒に食事をとるのに器が揃っていないことなんて、もっと気にしない。でも、私は気になる。ものすごく気になる。見栄えという点もそうだし、せっかく二人で一緒に食事を取るのだから、揃いのお皿で食べたい。どんぶりで白米を食べられるのはまだしも、スープカップでお味噌汁を飲むなんてもってのほかだ。
 父親は感覚として理解はしてくれないものの(多分育った環境が大きいんだろう。父方の実家もお皿を揃いで出すこととかに頓着しない)、私が気になるのだ、ということだけは理解してくれているようだった。料理は自分の領分ではない、というのも分かっている。だから、私が器を買う分には何も文句を言わない。「新しく買ったの?いいじゃん」と、ネイルを変えた女子相手のようなことを一言くれるだけだ。

 今、父親のお皿は箸と汁椀が私の手によって更新された。次はご飯茶碗を狙っているが、中々いい感じの大きさのものに出会えない。父親が食べない方(食べないというか、父親は私と同等かそれ以上に食事に興味がない)と言えども、私の基準で同じ器を選んでしまえばお供え物一直線だ。
 ちなみに、わたしのご飯は仏前に供えるくらい量が少ないことがあるので、たまにお供え物と評される。
 男性用の、出来れば薄くて軽い茶碗。近くの駅に定期的に美濃焼のお店がポップアップストアを出す。また近く来るらしいので、次こそいい感じの茶碗をみつけようと気合いが入る。
 わたしの素敵な飴釉のマグもそのストアのものだ。

台所が私の聖域になりかわる日を、私は密かに楽しみにしている。

追記 ちなみに今狙ってるのは宇田康介さんのグラタン皿。丸っこくてつやつやしてて、持ち手がある上に受け皿もある!完璧

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