食エッセイが好きだ

 食エッセイが好きだ。読んでいてお腹が空くな、と思う。
 食べること自体は、そうでもない。どちらかといえば多分嫌いの部類だ。美味しいものを食べるのは好きなので、優先順位が著しく低い、と言った方がもしかしたら適切かもしれない。

 わたしは覚えていないのだが、食事、というか食全般の優先度が低いのは昔からだったようだ。記憶がないくらいの幼少のみぎりから食への興味というものがとことん薄かったらしく、まず食事の席につこうとしない。椅子に座るまで寄り道や曲り道を繰り返し、よしんば着いたとてあれを食べては立ちこれを食べては立ち、一口食べてはおもちゃを触り、二口食べては絵本を開き、とそれはもう遊び食べが酷かったらしい。遊び食べというか、過去の自分の動画なんかを見ていると遊び8:食べ2くらいの割合で食事に向き合っているように思える。20歳を超えた今になってなお色濃く残る悪癖だ。
 いまでも、人と食事をするときこそきちんと集中して食べるが、一人での食事はもう、一口食べてはスマホを見て、一口食べてはお店の中を眺め、一口食べては本を読み、一口食べては椅子の背もたれに深くもたれ、そうこうしているうちに食事に飽き、また満腹にもなり、三割程度残した状態で潔く諦める、か、二、三時間ほどかけて全て食べ切るか。どちらかだ。友人には度々「露骨に喋る量が増えるからお腹いっぱいがわかりやすい」と言われるので、人との食事において隠しきれてもいないようだが。

 かといって食事に何か嫌な思い出があるから嫌がるのかと言えばそうでもなく、それはもう好き嫌いに関しては百点満点だった。嫌がらずに何でも食べる。偏食のへの字もなく、好き嫌いがなくて良い子だと褒めそやされて育ってきたのだが、今考えるとあれは無関心なだけだった気もする。多分、何でも、というかどうでもよかったのだと思う。もしくは食事を口に詰められながら全く別のことに思いを馳せていたか。
 わたしにとって食事に好き嫌いなどは特になく、「やりたい遊びを邪魔される」もしくは「空腹感が主張して邪魔だから何か食べる」ものでしかないのだ。
 興味がないのにプラスして小食でもあるものだから、放っておかれるとそりゃあ栄養状態は酷いものだった。空腹にあまり不快感を感じないので、小学生のころなどは誰にも何も言われなければ平気で丸一日飲まず食わずでいた。最高記録は三日だったと記憶している。
 小学生以前など、体がまだ小さいから胃も小さかったのではないかと思えばそれもそうではなく、大人になった今となっても牛丼のミニで満腹になるような胃の小ささだ。体格は小さいほうなので、むしろ食事を抜きがちだったから胃も体も小さいまま育ってしまったのかもしれない。

 加えて、アレルギーが多く、胃も腸も呆れ返るほどに弱い。カップラーメンを食べて吐き、とんこつラーメンを食べて腹を下し、屋台の揚げ物を食べて胃も腸も壊し、焼肉を食べて胃の痛みに蹲る。マックなんて食べた暁には翌日はやばやと口内炎が出来ている。食べ物の中で好きと言えるものは野菜と果物で、中でもトマトが好きなのだが、そのトマトにはアレルギーがある。アレルギー検査で数値が出た、ちゃんとしてるやつだ。
 それと、杉やヒノキ、ブタクサなどあらゆる花粉からの派生で様々口腔アレルギーもあり、キュウリ、ナス、アボガド、いちご、パイナップル、マンゴー、桃、指折り数えるときりがないので総括すると、南国フルーツとバラ科の食べ物は概ねアレルギーが出る。要するに、好きな食べ物のほぼすべてに制限がかかるのだ。年相応にジャンクフードも好きなのだが、上記で述べたように体調不良を覚悟して食べなくてはいけない。なにかで食べ物が十分でない環境に陥ったら真っ先に死ぬんだろうな、と今から漠然とそう思っている。
 食べられないものを列挙したら枚挙にいとまがない上に、もう、一番の好物にアレルギーが出たら食べることに情熱がなくとも致し方ないだろう。
 一番アレルギーが酷く出るトマトに至っては一番の好物だ。好物の中のトップオブトップだ。辛い。悲しい。トマトが食卓に出ない夏なんて。いや、夏どころではない、春夏秋冬トマトが食べたい。あの瑞々しさが味わえないなんて堪えがたい。出先では決してやらないが、家では自己責任で食べることもある。アレルギーの強めの薬を飲んで、傍らに吸入器を置いた万全の状態で。
 
 小学生の頃、エビアレルギーの友人がレッツチャレンジと叫びながらエビを食べて見事アナフィラキシーショックを起こしたことがあったが、今になってそれがわかる。食べられないというのは辛いものだ、まして周りでみんなが食べていたら、もっと辛い。

 それでも、食事に興味がないから食べられればなんでもいい!とならなかったのには、祖母と母の影響が大きいのだと思う。食事に興味はないが、こだわりはある。食べることが好きでないのだから、それを押して食べるのであれば楽しく美味しいものを食べたい。人とで食べるのであればなおいい。
 食の家庭環境の話をすると、祖母は昼は定食屋を、夜は居酒屋を営み、若かりし母親は中華料理店で鉄鍋を振っていた。要するに、料理人に囲まれて育ったのだ。だから当然、舌も肥えた。
 どんな外食よりも母や祖母の料理が美味しかったし、誕生日だってクリスマスだって外食にいい顔をせず、いつだって母や祖母の料理を所望してきた。好きなおかずはきんぴらや卯の花、酢味噌和え、おひたしなどで、和食ド真ん中だ。それも、副菜に位置する小鉢ばかり好んで食べる。母親としては料理を好いてくれて嬉しい半面、忙しい大人としては手抜きが出来なくて面倒な子供だったのではないかな、と思う。何せ「これあんまり美味しくない、お惣菜?」と言って弾いてしまうような子供だったから。
 そして食に興味もないものだから、美味しくないものを食べるくらいなら食べなくても全然構わない、と躊躇いなく食事を抜いてしまう。悪癖だ。食べたいものが浮かばなければ、平気で食事を放ったらかして本を読んでしまう。お昼を買ったはいいものの食べる気にならなくて、その場にいる食べることが好きな友人に譲り渡したりもしてしまう。
 わたしが一人暮らしをしようと思わない理由が、これである。
 一人暮らしなんてしようものなら「まあいっか」で食事を抜き続け、しまいには倒れる。そういう予感がする。

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