定食屋「欽」譚 (13)

2015年5月10日 

 暖かい日が続き、雪解けは例年より早い。美代子と泰蔵は、日差しの中を実家の裏の針葉樹林へ入った。実家に住んでいたころと比べると人手を入れないからなのか、落葉松とも呼ばれるカラマツの寿命なのか林は荒れていた。それでも林道は枝が打ち払われ、山奥へと続いていた。
 2人は水源へと向かった。あちこちが雪解け水でぬかるみ滑る。湧水の取水場は、昔と違って浄水装置が組み込まれ、小屋ほどのコンクリートで蔽われていた。
 下流の陽の当たる水際にヤチブキが顔を出している。山の木々はうっすらと新緑で、小枝の間隙から零れる陽が二人に降り注いでいた。小さな雪解け水の流れに陽が反射してあちこちで耀く。所どころに残ったザラメ雪が、反射光で真っ白に膨らんで見える。
「綺麗だな。こんなところだったのか。君の話で想像していたのとは少し違うな。もっと暗くて湿っぽいと思っていたよ」
「私の話の内容に影響されていたのでしょう」
 美代子は泰蔵に手を引かれて林道を歩いていた。ここへ入るのは、欽一が亡くなってから初めてのことだった。泰蔵が背負った黒色のリュックには、欽一の石が入っている。
 美代子は、森の子の話を2人の若者に語ってから、石を山へ返そうと心に決めていた。5月の連休明け、去年より雪融けが進んでいると和から聞き、泰蔵と出かけてきたのだ。
 和は80歳を超えていた。少しの畑作をしながら一人で暮らしている。疎遠だとは言っても高齢の母親をほっとくわけにもいかず、数年前から、月に何回か顔を出すようになっていた。母の頑なさはそのままだが、年齢を重ねるとともに、時折自分が何のために美代子を嫌っていたのかわからなくなるのか、心細いのか、何かと電話を掛けて来るようにもなっていた。
 今朝、車で実家を訪れて和の身の回りの様子を見、冷蔵庫に持参の総菜を仕舞いながら食べ物の賞味期限などに目を配った。動きながらも、座って茶を飲みながらも、石を山に返すことを何度も説明した。話が変わり少し経つと和が「石はどうするのか」と繰り返し尋ねるからだ。
 実家を出て森へ向かう時、和が針葉樹林の入り口まで2人に付いてきた。美代子は林道へ入る寸前にもう一度確かめた。
「兄ちゃんの石を、森に返してきていいのね」
「いいよ。私のところに置いても、いつかどうにかしなきゃならなくなるんだから」
 和は同じ返事をしてよこした。森に帰すことをさも当たり前のように話している。石が美代子の手元へ来てから、ますます娘を疎んじるようになったことなど忘れてしまっているようだ。美代子が結論した経緯とは別に、和も年齢とともに変化していた。和を家へ帰し二人は林道へ入った。

 欽一と恭太と3人で山へ入ったのは6月だ。当時の記憶と比べて林道は細く心もとないが、泰蔵の存在は頼もしかった。
「父が以前教えてくれた話だと、このへんから西へ進むと石があった沢に行きつくというの。危険な場所だというから、気を付けて行きましょうね」
「足元が滑るな」
 水源地から少し上がったところで、林道から外れて西へ向かうとツタや倒木、堆積した落葉で一歩ごと危うい。二人並んでは歩けず手を離し、足元を見ながら慎重に進んだ。
 雪の重みで倒れた笹は、まだ起き上がっておらず、茎が寝ているところは一足ごとに確認しながら歩いた。少し行くと水が流れる音が聞こえてきた。朽ちた葉や枯れ枝を掻き分けながら水音のする方へ向かう。泰蔵が声を出して急に立ち止まった。ぶつかるようにして後ろに立つと、足元に深く切れ込んだ沢があった。
「水に削り取られた沢って聞いていたけれど、ここかしら」
「山は不動というが、半世紀経っているんだ。地形は自然の力でどんどん変わる。ここだともそうでないとも僕たちにはわからないな」
「きっとここよ。水源も家も近いから。兄ちゃんの石はここに戻しましょう」
 二人でヤナギの枝やノブドウの蔓に摑まって沢へ降りた。思ったより沢の幅は狭く、長靴は水流の中だ。泰蔵がリュックから布に包まれた石を取り出して美代子に渡す。美代子は泰蔵に包みをほどいてもらい、石を一度抱きしめた。
「兄ちゃん。帰ってきたよ」
 石をそっと置いた。雪解け水の流れに濡れて、廻りの雑木や土くれ、削られて丸くなった小石と少しの違和感もなく『森の子』と刻まれた石はそこに溶け込んだ。

 山に兄の石を帰して、札幌に戻ったのは午後6時を過ぎていた。
2人は臨時休業の札を下げた『欽』に入った。手元には水源の下流で摘んだ一抱えのヤチブキがあった。黄色の花やつぼみをたくさんつけている。ふきのような丸い葉は光沢があってきれいな緑色をしている。花も葉も茎も丸ごと食べられる春の山菜だ。地元ではヤチブキで通るが、エゾノリュウキンカとも呼ばれ寒冷地の水のきれいな湿地に繁殖している。ヤチブキの下拵えと翌日の仕込みをしようとヤッケを脱いでバンダナをつけていると、泰蔵が話しかけてきた。
「開店からあった『森の子』がいないと淋しいものだな」
 泰蔵は石があった棚のそばに立っている。美代子がスタンドランプを燈すと、2人には、いつもなら壁に小さな影を作っていた石がないのがさらに物足りなくみえる。
「私は今までと同じよ。でも泰蔵さんがそんなこと言うなんて意外だわ」
「どうしてだ?」
「淋しいという言葉が似合わないから」
 二人で笑った。
 美代子は自分が強がっていると自覚していたが、めそめそした気分になるのが嫌で、泰蔵を店から追い出すことにする。
「仕込みが済んだらすぐ帰りますから、お風呂にでも入っていてくださいな」
 美代子が厨房で鍋に水を入れ始めると、泰蔵が店を出て扉が閉まった時の熊鈴の音が、水音の中から聞こえた気がした。
 だし昆布を切り刻んで鍋に落とし、干し椎茸を加えて蓋をした。ごぼうを洗い、ささがきにして水にさらし、人参の皮をむいておく。なべ焼きうどんの仕込みが終わると、明日お浸しにするためにヤチブキの仕分けをする。黄色い花がたくさん咲いているものはよけ、少しの花や蕾のついているものはざぶざぶと洗い、切り口を桶の水に漬けて置く。
 よけたヤチブキの満開の花を、ガラスの器に活けて写真の下に飾った。石がなくなり、広々としていた空間が落ち着いた。花の色は鮮やかで、スタンドランプに照らされて金色に輝いていた。
 美代子は、大食卓の角の席に腰かけた。水仕事で冷たくなった指をこすり合わせるとヤチブキの香りが立った。金色の満艦飾の棚に眼をやる。食卓の上でバンダナを畳む。
 これからも、仕事が一段落した時、オレンジ色の灯りを背に受けて、この席で美代子はいろんなことをする。縫い物。読書。たまに手紙を書く。店の洗濯物を畳む。壊れ物の修理をする。あれ以来、悟と修司は連れ立って顔を見せるようになっていた。兄弟のように二人は戯れて美代子とおしゃべりをする。常連達も変わらず通う。いつも、窓辺にスタンドランプがある。                     

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