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定食屋「欽」常連(2)

2015年2月10日   

 節分を過ぎると、3日に1日は穏やかな天候の日が来るようになった。堆く積み上げられた雪の山も、日に日に嵩を下げている。「欽」の前の歩道は路面の雪が溶け、吹き溜まったスズカケの枯葉が濡れて顔を出していた。
 昼の客足が途絶えた午後3時過ぎ、美代子は玄関先で、重たい枯葉を火ばさみで少しずつゴミ袋に集めていた。
「お久しぶり」
 声に顔を挙げると、俊彦におぶさったキエがマンションの前で手を振っていた。
「キエちゃん。俊彦さん。こんにちは」
 手早く袋の始末をして腰を伸ばした。ここからでもキエが二回りも小さく見えるのは、俊彦が大きいからだろうか。二人は「欽」の前までやってきた。
「これからどちらへ」
「『欽』へ行くとこよ。おぶさるのが嫌でなければ連れて行ってやるというから、来ちゃった」
 キエが顔を出すのはずいぶん久しぶりのことだ。年末も年明けも姿を見せていない。気にしてはいたが、自分が、問い合わせるほど親しいのかがわからない。それも病気のことがあるのでなおさらだった。美代子は枯れ葉の袋と道具を張り出しの左手へ片づけ、店の扉を大きく開いて二人を通した。
「俊、あそこへ下ろしてちょうだい」
 俊彦は小上りに後ろ向きにしゃがみ、キエから手を離した。キエは畳に降り、両手をついて膝で壁際へ移動した。
「ここならいいわ。寄りかかると楽なのよ」
 キエがいつも座る席は堅木の大食卓の背もたれのないベンチだ。前回来たときもそこで一人、時間を過ごした。
 美代子はついて上がって、背中に座布団を入れた。痩せ方がひどくて、壁では背骨が痛そうだった。
「来たかったのよ。いつものをお願い」
 ちらっと俊彦を見ると小さく頷いたのがわかった。外が白く中が薄青い青磁の湯飲み茶わんを選んで6分ばかりの日本酒を注いだ。
「美代ちゃんに、話したいことがたくさんあるの」
 気がせいているのか、少しばかり早口になっている。キエの横に坐って、湯飲みを目の前に置いた。
「おばさん、僕は河出書房へ行って来ます。30分位お世話になります」
 河出書房は西隣のマンションの一階に入っている本屋だ。息子がいては話しずらいだろうと母親に気を使っているのか、本屋での30分は短か過ぎるだろうに。俊彦は美代子に頭を下げてから「のみすぎるなよ」と笑って母親を見る。もう一度美代子を見、目礼をして店を出た。扉が閉まると、熊鈴の音が長い余韻を引いた。
「コートは」
「いつもと同じ、このままでいいの。気を使わないでね。痩せても枯れてもキエよ。シャレにならないわね。こんなに痩せちゃ」
 くすりと笑うが苦笑に近い。両手で湯飲みを持って1口飲んだ。
「あー、これよこれ。生き返るわ」
 飲んだ後しばらく目を閉じている。話しかけた方が良いかと、美代子が身を乗り出した時「あまりご飯が食べられないから、毎日ここから点滴をしているのよ。味もそっけもない」と鼻から息を漏らすように笑う。
 キエはベージュのダウンコートの襟をはだけ、右の鎖骨の下をトントンと叩いて見せる。白いバンソウコでおおわれている。
「便利な世の中よ。痛い思いをしないでもいつでも点滴をつなげるの。ここのボタンみたいなものにプチっと針を刺すだけ」
 昨年末から、看護師や医師が往診に来ているのは、時々目にするので知ってはいた。入院しないで最後まで家で過ごすのはキエの強い希望だと俊彦が言っていた。
 俊彦は年末に、妻の幸代とサンライズマンションへ移ってきていた。引っ越してきたというより、セカンドハウスのように、どちらでも暮らせるようにしているようだ。期限のわからない看病に精神的に追われることなく、住み慣れた部屋でキエに過ごしてもらうための工夫なのだろう。
 2口目を飲む。ごくりと喉が動くのが見えた。
「去年の暮れもキタラへ第九を聴きに行ったのよ。お医者さんの往診を受けながら、音楽会でもないでしょうに。でも今までで一番良かった。今年の席は13列28番。ホールまでは車椅子を借りたけれど、席まで俊におぶさってというわけにはいかなくて、頑張って歩いたのよ」
 話し続けて息を切らしていたが、呼吸が整うと3口目を飲んだ。
 キエは、何年か前から毎年末、札幌コンサートホール「キタラ」へ、札幌交響樂団と合唱団の第九を聴きに行っていた。毎回、コンサートの何日か後「欽」へ報告に来る。合唱を聴きながらその年を振り返り、反省や後悔もあるが大方元気になって、新年を迎えられると話していた。
「指揮、尾高忠明。『酔いしれて、天の聖堂へ』、乾杯」
 唄うように言い、湯飲みを持った腕を高く差し出した。酔ったのか心配になったが、気持ちよさそうにしているのを見ると止められなかった。
 4口目を飲む。両手に湯飲みを持ったまま壁にもたれかかった。急に眉間を釣り上げた。
「どこか、痛むの?」
 美代子は扉を見る。俊彦はまだだ。
「美代ちゃん。心配しないで。同じ姿勢でいるとあちこちすぐ痛くなるの。骨ばっているから」
 腰をずらすと元の表情に戻った。
「迷惑だったかしら」
「いいえ。私も一杯やりたくなった。おいしそうに飲むんだもの」
 一杯やりたいのは本心だった。キエの容態が解らない不安は大きいが、付き合って飲みたい気持ちが勝った。
「私は離婚してから、世間に恥じないように生きてきたつもり。その点は自分に褒めてあげたいの。だけどいつの頃からか、私はどう消えるのか、ばかり考えるようになっていた。俊の立場なんて考えずに」
 自分に酒を持ってこようかとぐずぐず考えていると、キエはいきなり核心に入った。話急いでいるのか。元気なころには語り合ったことがない話題だ。美代子は気掛かりが伝わってしまわないようにそっと息を吐いた。心の内では『折角来てくれたのだ、いつものようにもてなそう』と必死の思いだった。
 5口目を飲む。
「人生、量より質。ここで飲むお酒が一番おいしい。近くに『欽』があって私は幸せでした。ありがとう。美代ちゃん」
「キエちゃんにはかなわないわ。でも過去形で言わないで。私もお相伴するから、ちょっと待っていてね」
 盆に、同じ伊万里焼きの青磁に入れた日本酒と、サラサラの白い塩を入れた小皿を置いて、小上がりに上がる。キエの前に小皿を出す。
「これなあに」
「アルプスの塩よ。2億5千万年前の岩塩でね、ドイツ土産に頂いたの。これが合うのよ、日本酒に。最近の私のひそかな道楽」
 美代子が指に岩塩を付けて嘗めて見せた。続けて日本酒をくいと飲む。笑ってみていたキエが真似をする。
「名前はアルペンザルツというのよ。どう?」
「旨味のある塩ね。アルプスがわたしの体に滲みていく感じがする」
 嬉しそうに、何回か塩をなめる。
「まだ、過去形にするのは早かった。今も私は幸せです」
 キエは小さな体をさらに小さく屈めて、両手に持った湯飲みの酒を飲む。からになった湯飲みが重そうに下がる。腰をまたずらす。
「来てよかった。俊には本当は反対されたの。『今日行かないともう行けなくなる、あんた一生後悔するわよ』って脅して実現したの。わがままな母親よね」
 キエの目に輝きが燈り、ほんのりと両頬に赤みがさしていた。
「俊には苦労を掛けたけど、いい子に育ってくれた」
 返す言葉が思い浮かばないうちに扉が開いて熊鈴が鳴った。俊彦が、本を小脇に抱えて入ってきた。真っ先に母親の顔を見て、安心したのか美代子に向かって頭を下げた。
「お世話になりました。もういいかい。帰るよ」
「御迎えだ。美代ちゃん有り難う。美味しかった。幸せです」
 小上りに腰かけた俊彦に向かってゆっくりといざった。酔っているのか両腕がゆらゆらしていた。俊彦はジャンバーのポケットに本を突っ込み、母親を背負い、立ち上がった。
「旨い酒を飲んだみたいですね。機嫌がいい」
「美味しかったわよ。いいおつまみだった。後で自慢話を聞かせるね」
 俊彦が美代子に向かって頭を下げると、キエも一緒になって頭を下げた。
「ではね、美代ちゃん、これからもお仕事がんばってね」
 キエは息子の肩に頭を凭れて帰って行った。ほんの30分だった。
 美代子は、もっとキエの喜ぶことができなかったかと、自分のしたこと、話したことを振り返るが、後悔ばかりだった。キエの笑顔と、ウイットに富んだ語り口、いつもより饒舌だった事が美代子を癒し、哀しませる。
「キエちゃんにはかなわない」

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