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長編小説 定食屋「欽」譚 (3)

2014年12月7日 

 美代子が布巾で食卓を磨いていると、鈴の音がして、賑やかな声とともに若者が何人か入ってきた。
「今晩は。2人減ったんですけど、いいですか」
昼に電話が入った大学生のグループだった。5人で予約だったが男子学生3人になったという。色白で細面の青年が電話をかけてきた一瀬修司だ。昼に何回か来ているが、夜は初めてだった。修司は頬を赤くして頭を下げた。
「何人でもいいわよ。どこに坐ります」
 2人が小上りを示した。髭が伸び放題の黒縁メガネの青年は「しばれるぅ」と笑いながらジャンパーを脱いだ。縄編み模様が入った真紅のセーターを着ていた。良く見ると鼻梁が通ってなかなかの男前である。食卓を挟んでそれぞれに坐った。修司は胡坐を組まずに正坐している。
「若い人は坐るのが苦手な人が多いから椅子席を好むけど、あなたたち大丈夫なのね」
「僕は椅子の方がいいけど」
 体育座りが苦手な修司が恥ずかしそうにいうと、他の二人は破顔した。もう一人の体格が良くて銀縁のメガネの青年が、壁際から立ちあがり修司の袖を引っ張った。
「修司は体が固いからな。俺と変わろう。こっちは寄りかかれるから楽だろ」
「角川先輩、いいですよ。大丈夫です」
 角川と呼ばれた銀縁メガネの青年は、「無理するな」と入れ替わった。
「落ち着いたところで、飲み物は何にします? ちなみに今夜は、あそこに書いてあるけど、鮭のちゃんちゃんン焼きとゆで豚がメインで、あとはモヤシの野菜炒めです」
 3人はカウンター後ろの白板ボードに貼ってある、本日のメニューと値段を書いた紙を見た。口々に何か金額のようなものを言い、角川が指折り数えて「かなり大丈夫だ」と宣言すると、焼酎のお湯割りで始まった。枝豆をつまみに飲み始めた3人は賑やかだった。サークル仲間か何かだろう。ボランティア活動が話題になっていた。
 美代子は、水菜やレタスの上に柔らかく茹でた豚ばら肉の薄切りを盛り、酢醤油と胡麻油のたれを回しかけ七味を振った。青年たちの食卓に置くと屈託のない歓声が上がった。我先にと箸をつける様子は子どものようで、美代子は思わず微笑んでいた。
 選挙カーの声が近づいて来る。何かを連呼している。店の前を通る時、誰かの名前なのだとやっとわかる。衆議院議員の解散総選挙は、投票が来週の日曜日だ。
 青年たちは、名前の連呼にどういう意味があるのか、と話は選挙の話題に変わった。修司は今回が初めての投票だと説明している。住所を実家の群馬県から移動していないという髭の青年は、投票用紙が実家からまだ届いていないと困っていた。選挙の争点はもっぱら経済政策や消費税率の引き上げがどうなるかだが、青年たちにとっては投票自体が問題のようでもある。
 美代子が陶板鍋のちゃんちゃん焼きを運んできた。蓋を取ると、バターとみその香りが広がった。
「うまそー。俺、これ初めて食べるかも」
 紅いセーターの髭の青年が真っ先に箸をつけた。
「いける。なまらうまい。チャンなんだっけ」
「小塚、これはちゃんちゃん焼きだ。おばちゃん、北海道の料理だよね」
 角川の問いに美代子は中華鍋を熱しながら「そう、郷土料理よ」と応じた。
 日替わりメニューが何であれ、この店に来る若者は楽しそうだ。手作りで、平凡なメニューだが、手軽に手に入るファストフードにはない出来立ての香り、温かさ、歯ごたえを喜ぶ。いつも誰かのおふくろの味の話が出て来る。
 中華鍋とトングの威勢のいい音が聞こえてきた。ゴマ油とナンプラーの香りが漂う。ガス台の上の換気扇は全速力で回っている。
「僕ね、今度の選挙にでることにした」
 修司は頬を紅くして幾分酔った口調で2人に向かって話しかけた。
「出るって、立候補のことかい。もう遅いっしょ」
 北海道弁にはまっている小塚が下手な俳優のように話す。いつのまにか慣れた方言を、本人も自覚しないで使いこなせるようになっていたが、最近はなぜか、わざと下手に話すことにはまっていた。周りに「聞いていて恥ずかしいし、腹立つからやめろ」と再三言われていたが、やめる気配はない。
「何党から出るの。政策は?」 
 角川がマイクのように醤油刺しを突き出す。
「エー私はゲンカイ党の一瀬です。よろしくお願いします」
 美代子が笑いながら大皿に山盛りの野菜炒めを運んで来た。湯気が立ちのぼり修司の頬をますます赤く染める。美代子は小上りのボトルやグラスがはいった食器棚の一番下の引き戸を開け、ウイスキーや酒のボトルが並んだ一角から一升瓶を出して修司の前に置いた。
「これね、転勤したお客さんが置いていったマイボトルなの。ゲンカイ党の一瀬さん、良かったら飲んで。ポットにお湯が入っているから、自分たちでお湯割り作ってね」
「マジ、半分以上あるしょ」
 小塚が瓶を持ち上げ透かし見た。
「おまけに『いいちこ』の白ラベルだ。豪華」
 3人が口ぐちに礼を言う。
 料理を出し終えると、美代子はステンドグラスのランプのそばに坐り、浅葱色のストールで膝を覆った。裁縫箱を出してクリスマス柄の布で縫い物を始める。風向きで窓ガラスにぱらぱらと霰が当たり、選挙カーの声が途切れ途切れに聴こえた。
 小塚は自分の2杯目の湯割りを作っていた。
「ゲンカイ党の公約を述べてください」
 角川が再び醤油刺しを振り回し、数滴、醤油がこぼれた。
「私の公約は、教師の給料を上げます。高校まで義務教育にします。奨学金を無償化にします。子どもの数に応じて世帯の税金をもっと下げます。えーこれはちょっとないマニフェスト、健康な国民には健康手当を支給」
 公約一つごとに二人から賛成の声が上がる。修司はこぼれた醤油を拭きながら思いつくままに演説しているようだが、酔いが回るのが早い体質なのか唄うような口調になっている。最後のところで賛成の声が止まった。
「そのマニフェストとやら。予算はどっから持ってくるのですか」
 小塚はいきなり人差し指を修司の鼻先に突き付け、流れるようだった話の腰を折る。角川は「傾聴、傾聴」と言って修司に見えないように小塚に目配せをしたが、小塚は気付かない。
「そんなこと、なまら金ないとできないしょ」
「できます。人を育てるのが国の一番の仕事だ。それに、税収入を増やすには、人の身体の限界を知り、国民を大事にしないと」 
 修司はふざけているようで眼差しは笑っていない。首まで赤くなって小塚を上目遣いで睨む。角川がテーブルの下で小塚のセーターの裾を引っ張ったが、動作の意味が分からない小塚はその手を払いのけて聞く。
「限界を知るってどういうこと?」
「ゲンカイという党名の由来を話します。国の予算には限界があります。なぜか。国民の生命には限界があります。働く人の健康にも限界があります。税金を納める人の数にも限界がある。限界を知らない政策なんて不毛です。それは偽善であります。だからゲンカイ党なのです。みんなに限界を知らしめたい。そこから始まる小さな国造り。清き一票を」
 修司は一気に言ってから、大きく息を吸い何度も瞬きをして、俯き囁いた。
「誰しも限界を知っていれば、引き時を知るんだ。何もかもに限界があるんだ。無理しちゃダメなんだ」
 ようやく小塚に思い当たることがあったのか、右手で無精ひげを撫でながら、角川に向かって小さく頷き「そういうことか」と頭を下げた。
 小塚は、修司の湯割りを作り、角川は醤油刺しのマイクを下ろし、野菜炒めを食べ、ゆで豚を口にした。誰も何も言わずに時間が過ぎる中で修司の両頬の赤みが消え、下瞼は乾いた。
 美代子はただ、若気で他愛のない話をしているものとばかり思っていたのが、様子がいきなり変わったので半ば立ち上がった。しかし、角川の落ち着いた顔つきを見、今は静かに酒を飲む三人を横に再び坐りなおした。膝の上の、いくつか出来上がった靴下の形のオーナメントにパンヤを詰めはじめる。
 角川はシャキシャキしたもやしを噛みながら頻りに一人頷き、湯割りを飲んだ。
「この野菜炒め、焼酎に合うな。紅ショウガと豚肉ともやしが絶妙。今日は酒もたっぷりあるし、時間もある。ゲンカイ党の話をとことん聴くぞ」
 修司は照れたように鼻を啜った。
「悪かった。一人で調子に乗って」
「演説で情実に囚われ過ぎるのってどうなんだろ、おばちゃん」
 小塚が美代子に振った。
「私は泣かせる演説も好きかも。めんこいしょ」
 美代子の言葉は小塚に受け「めんこいめんこい」と修司の頭をくしゃくしゃにする。
 クリスマス飾りを両手に抱えきれないほど作り、ぱらぱらとやってくる客の対応をし、『いいちこ』が空になり、出した料理と、食べ放題の炊飯器のご飯や生卵が底をついたころ、話の節々を聞くともなしに耳にして、修司の心の哀傷が、自分の身に染みているのを感じていた。

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