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長編小説 みずみち 2

 昭和44年3月25日火曜日、花村フミは砂川の自宅へ帰るために、札幌発網走行き16時発の急行『大雪』に乗車した。列車の中は暖房と人いきれで蒸し暑い。乗客は8割方埋まっていた。駅前の本屋で購入した家庭雑誌を膝の上で開いたまま、ぼんやり景色を眺めていた。
 札幌を離れると、車窓に田園地帯が映る。畦道の枯草の中にフキノトウが見え、北向きの日影になる場所には、残雪が残りいまだ寒々としている。田や畑はまだ耕されていない。所どころに、湯気立つ堆肥が山に積まれていた。
 読み物に集中できず気が散るのは、後ろの席の中年の夫婦連れが、連続ピストル射殺事件の話をしていたからというのもある。網走出身の犯人でまだ捕まっていない。横須賀の米軍基地から盗んだピストルで四人を殺害して逃走中だった。昨年秋から大きく騒がれていて、おまけに夫婦連れは、犯人が6歳まで住んでいた網走の人のようだ。道内に潜伏しているかもしれないという情報がある。時々情感が入り話し声が高くなるが、それも江別辺りまでのことだった。
 居眠りでも出たのだろうか後ろの席が静かになると、車内の暖かさに気が緩む。長男の賢一のことが一段落したのもあり、疲れが浮き出てきた。
 2月と3月は、賢一が札幌市の進学校のN高校を受験するために、気が抜けない上に何かと多忙だった。賢一は、合格すれば南区のフミの妹夫婦の家へ下宿する予定になっていたのもあり、入学が決まった3月初旬は、引っ越しの準備や入学に必要な手続きで何回か砂川札幌間を往復し、目の廻るような忙しさだった。後は入学式が残っているだけだ。
 フミの夫、圭二郎は勤め先海北信金の年度末の決算期と、新規に立ち上げる赤平市の支店の準備が重なり、やはり飛び回るように働いており、家庭のことはフミに任せっぱなしだ。
 昨日、砂川からチッキで送った荷物を、賢一と二人で妹の山家薫の家へ運び入れ、部屋を片付けて日帰りで一人戻るところだ。
 入学式までは、賢一のことは薫に任せることにしてきた。初めて家を離れたが、薫の一人娘、N高校の3年生の麗子が何かと世話を焼いてくれ、高校の話が聞けるのもあり、本人は淋しがってはいない。
 砂川の自宅では次男の秀二が1人で留守番をしている。中学校はは明日から春休みで、来月2年に進級する。伸び盛りで難しい年ごろに差し掛かっており、一緒に暮らしてきた兄がいなくなるのを一番心にかけて気をもんでいたのは秀二かもしれない。歳が近く、何かと兄に頼りにしていた弟だった。
 列車が発車する振動で目が覚めた。膝の雑誌は床に落ちており、いつの間にか眠っていたようだ。あわてて車窓から駅名を読もうとするが駅名版が見つからない。ドキドキしながら流れる窓を見ていると、柱に”すながわ”とひらがなで書いてあるのを見つけた。乗り過ごしてしまった。何事にも慎重なフミはめったにない失敗で、落ち込んでしまった。
 雑誌を拾い荷物をまとめる。秀二には家に着く時間を知らせてあったので、次の滝川駅から家に電話をしなければならない。砂川駅を過ぎ空知川の陸橋を渡る時、夫はこの近くで砂川福子さんを発見したのだと思い川岸を眺めた。薄暮の中でも、川沿いに並び茂る柳の枝先が仄かに薄緑なのが判る。
 圭二郎は年が明けたころから、砂川市立病院の外科病棟に入院している福子の経過が耳に入ると、なにかとフミに伝えるようになった。石狩川と空知川の合流地帯で女の子を助けたことを、偶然フミが知ってからだった。いつもなら仕事上や、消防団であった話は家ではあまりしない。圭二郎は自分の考えを仔細に話すわけではないが、福子の今後を気にしているのが次第にわかってきた。

 昨年末の午後、朝から吹いていた北風が一時止んで、雲間から日が差し始めた時分、酒屋”丸加”の店員が酒とビールの配達に来た。フミが裏玄関を開けると、使いこまれた前垂れを廻し着け、頬を赤くした青年がビール瓶の箱を抱えていた。車から2回荷を運び入れ、フミは支払いのために青年を中に入れ引き戸を一旦閉めてもらった。
 上がり框に座り、割烹着のポケットから財布を出して支払いを済ませると、痘痕を頬に散らした青年は、あらたまった口調でフミに自己紹介を始めた。
「分団長にはお世話になっています。加藤勝と言います」
 年末の繁忙期だからか、いつもの配達員ではないと思ったが、酒屋の跡取りで今年から消防団に入り、圭二郎から指導を受けていると言う。
「はじめまして。こちらこそお世話になっていると思います」
 突然のことでどぎまぎして、挨拶もそこそこに揉み手になってしまった。
「来年もよろしくお願いします」
 加藤は”丸加”の名入りのタオルを10本あまり渡してよこした。
「こんなに沢山うちで貰ってしまったら、そちらで困るのじゃないですか」
 思わず半分を返そうと枚数を数えながら、数えてまで返すのも、と再びおたおたしたが、取り敢えず半分を加藤の膝に乗せた。
「年末何かとご入り用でしょう。こんなものでよかったら受け取ってください」
 加藤は手慣れた動作で押し返す。
「でも、そんなに大御得意というわけでもないでしょ。うちの人は家ではあんまり飲まないから」
「タオルでは済まないほど、いろいろ教えてもらっています」
 一頻りタオルが行き来すると、とうとう二人で笑い出してしまった。
 息が整った頃、気の張りが解けて加藤が話し始めたのが砂川福子のことだった。
「年度末に人命救助で表彰されることになったのは分団長のお陰です。初めてだったので無我夢中でした。言われたとおりにやっただけです」
 福子という女性は、二人に空知川と石狩川の合流部で冷たくなって発見され救助された。夫が自分に話していなかったことを、簡単に事細かに語ってしまう若者を見て、この人は私と圭二郎を同じ立場に捉えているのだろうかと思った。
「本当は分団長が助けたのです。僕が表彰されるのは分団長に推薦されたからです」
「二人いたからできたということね」
 加藤はそれまで何度も頭を下げていたが、何気なく言ったフミの言葉に体が止まった。
「加藤さんがいなかったら、助からなかったかもしれない」
「そういっていただけると嬉しいです」
 再び深く頭を下げ、10本のタオルを置いて笑顔で帰っていった。
 その夜、圭二郎はかなり遅く帰宅した。疲れたからと着替えてすぐ布団に入った圭二郎に、背広にブラシを掛け、翌日のワイシャツや靴下を出しながら、加藤勝とのやり取りを話した。腕枕をして聞いているようだったが、フミが枕元に戻るとどこまで聞いていたのかすでに軽い鼾をかいて眠っていた。

 7,8分で滝川駅に到着した。3月末だがこの冬は雪が多かったため、滝川駅構内の隅に、よけた雪の山がまだ残っている。フミは改札口横の構内の公衆電話から自宅へ電話を入れた。もう暮れ落ちて辺りは闇で、駅弁を売る売店だけが明るい。列車から降りた客は改札を出て三々五々散っていなくなった。
「花村です」
 電話の声は秀二にしては低く、風邪でも引いたかしらと心配になる。
「お母さんだけど、乗り過ごして滝川にいるの。帰るまでもう少しかかるけれど、お腹すいているでしょうね。すぐに食べられるものを買って帰るわ」
「フミか」
「あら、あなただったの。声が似ていて秀二かと思った。早いのね」
 今日は早めに帰宅したという。仕事が一段落したのだろう。
「秀二を連れて迎えに行くよ。外で飯を食べよう。疲れているだろう」
「嬉しいわ。駅前で待っています」
 圭二郎は、2月初めに、トヨタの中古車を購入した。仕事の地域が広範囲になり、社用車が足りなく、年度明けの予算で新車を購入するまでの当面の便宜に、会社で業務使用車としても使っていた。
 フミにとってはこの年、車があると助かることが多かった。圭二郎の身体が空く土曜の午後か日曜日に限られるが、買い物は滝川市の商店街の方が品揃えは良いし、賢一の引っ越し荷物を駅まで運ぶのも楽だった。
 周りに運転免許証を持っている女性は皆無で、男性でもまだまだ少ないが、圭二郎がいなくても使えるように、自分も運転免許を取りたいと思っている。
 改札を出て待合室を過ぎ表へ出ると、左側にある交番の赤く丸い電灯とガラス戸の中の明かりが目に入る。駅前のバス停にはもう誰も立っていない。食べに行くとしたら、駅前広場の真向かいの、赤い暖簾が見える食堂か、砂川に戻って駅前横丁の天ぷらか。フミは空腹だった。食べ盛りの秀二は何か摘まんだだろうか、と気になった。

 茶色のセダンがフミの前に停まった。助手席に秀二が座っている。フミは後ろのドアを開け、荷物と共に乗り込んだ。
「お母さん、お帰りなさい。とんカツ食べに行くんだよ。とんカツって知っている? 滝川にお店ができたばっかりなんだって」
 秀二は父親似で、背が高く、濃い眉と切れ長の目をしている。賢一はフミの方に似て、小振りで肩幅が広くしっかりした体格だ。
「とんカツは知っているわ。料理の本に作り方が出ていたもの。滝川に食べるところができたのは知らなかった」
「僕、とんカツなんて見たこともないよ。お母さん作らないし」
「食べないと作れないのよ。主婦は、時々美味しいものを外で食べないと料理が上達しないの」
 ふざけて笑っていると圭二郎は車を砂川の反対方向へ向けた。
「この前接待で使ったのだ。とてもおいしかったから、いつか皆を連れて行こうと思っていたが、こんなに早く実現するとは思っていなかったよ」
 札幌のとんカツ屋で修業した料理人が、2月に本町の銀座通りに”角田”という店を始めたという。秀二は外で食べることが嬉しく、兄の様子を聞くことを忘れている。
「お腹すき過ぎると、ほんとに美味しいかどうかわかんなくなる。困るな」
 秀二は面白いことを言っては二人を笑わせていた。来る前にアンパンを食べたというが、とんカツの話だけでさらに食欲がわいたようだ。
 銀座通りの仲通りに車を停めて、”角田”の、墨で川の流れを描いたような生成りの暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」何人かの声に迎えられた。帽子や服が白ずくめの店主らしき男が、厨房の中から頭を下げた。カウンターにはすでに客が並んでおり、繁盛している。
 料理人の後ろにガスコンロがあり、大きな揚げ物鍋が火にかかっているが、換気扇が勢いよく廻っており、油の匂いはしない。調理台で、店主より若い男が一心にキャベツを刻んでいた。
「小上がりへどうぞ」
 紺絣の上下のお仕着せを着た、小柄で賢一ぐらいの年の女店員が案内した。3人で食卓を囲み、置いてあった献立表を見ていると、女店員が大きめの急須と湯飲み茶わんを持ってきて卓に並べた。湯飲みに注がれたのは香りの良い焙じ茶だった。
 フミは汽車に乗ってから何も口にしていない。茶の香りにつられて手を伸ばすと、秀二も湯呑を取ろうとして「熱い」とすぐ手を放した。指で耳をつまんで口をとがらせている。
「それほど熱くはないわよ」
 フミは平気で飲んでいた。女店員は俯いてクスリと笑い、傍に座って会計表を開いた。
「お決まりですか」
「僕、とんカツ定食にする。カツの大盛りってありますか?」
「はい、できます」
 秀二は大盛りを頼みフミと圭二郎は普通盛りにする。店員は丁寧に注文を記入し繰り返して確認した。 
 運ばれてくるまでの間、フミは雑誌で見たことがあるうろ覚えの食べ方を秀二に教えた。とんカツソースというのがあってそれを醤油のように掛ける、と説明すると圭二郎が、ソースもうまいぞと秀二を煽る。
 焙じ茶がなくなるころ定食が運ばれてきた。黒塗りの盆の上に、山盛りの千切りキャベツと切った大きなとんカツが乗った大皿。端にマヨネーズと八つ切りのレモンが添えてある。湯気の立った豆腐とわかめの味噌汁とご飯、ニシン漬けが並んだ。
「ご自由に使ってください」
 店員はソースと辛子の瓶を置き、急須を取り換えて下がった。秀二の皿は一回り大きくキャベツも多い。カツは2枚重ねだ。食べている間、時々「カツ、美味い。ソースも絶品」と唸りながら2枚ともぺろりと平らげた。
 先に食べ終わった圭二郎は茶を飲み、ビールのポスターを見るともなしに眺めている。フミは、自分が車を運転出来たら、こういう時圭二郎がビールを飲めるということだと考える。いつか、その線で夫を説得しようと心に決めた。

 自宅横の空き地に車を停車したのは8時を過ぎていた。秀二はフミの荷物を運ぶのを手伝い、濃い眉を八の字にして満足げな様子で、2階の自分の部屋へ上がろうとして階段の途中で立ち止まり、フミを見下ろした。
「兄ちゃんは損したね。今日居たら、カツをたらふく食べられたのに」
 他愛のない言葉だったが、兄の不在が秀二の気持ちに影響していないことがわかってフミは安心した。兄弟は大人になるに従い、こうして自然に自立していくのだなと、少しばかり淋しい気がした。
 圭二郎は居間で卓袱台の前に座って、新聞を広げている。「金の卵」の文字が見える。セーラー服姿の中学生の写真が紙面を大きく飾っていた。久しぶりの家族との外食と、仕事が一段落した余裕でくつろいでいた。
「ビール飲みますか?」
「そうだな、腹一杯だからウイスキーにするかな。オンザロックで」
「わたしもお相伴していい?」
 圭二郎は「久しぶりに付き合うか」と言いつつ新聞を脇に置き、居間の食器棚を開け、何やら探し始めた。
「確か、氷下魚の燻製が残っていたよな」
「冷凍庫に入っているわ。私が炙って持っていくからあなた、グラスを出して」
 フミは氷の入ったペールを卓袱台に置いた。台所へ戻って、氷下魚を焙り、マヨネーズの上に七味唐辛子を振った小鉢、自分用に冷えたビールと栓抜きを、盆にのせて運んだ。圭二郎の横に座ると、ビールの栓を抜いてフミに酌をしてくれる。
「今日はお疲れさま」とグラスを合わせてきた。
「こちらこそ、転寝して迷惑をかけました。お陰様で美味しいものを食べられて、二重に感謝です」
 圭二郎が氷下魚を剥き始めると、居間に干物の独特の匂いが漂い始めた。好きな者には食欲をそそる匂いだが、食べない者にとって、臭さは強烈だ。
「ウイスキーのおつまみに氷下魚って会うの? 焼酎とか日本酒向きのように思うけど」
「どちらかというとマヨネーズが合っているのかもな」
 賢一の様子を聞かせていると、圭二郎は、ふんふんと頷きながら氷下魚を齧っている。
 圭二郎は石狩郡当別町から札幌の高等学校高等科へ進学し、北海道帝国大学を目指していたが、戦争があり陸軍士官学校へ方向転換した。戦後、改めて、大学受験をして入学したので社会人になったのは25歳だ。賢一を親元から離すことを、全く心配していなかった。男親と女親とは考え方が違うものなのだ、と改めて思う。
 同郷で同級生のフミは江別の高等女学校専攻科へ進んだ。女の子を親元から離さない家庭は今もある。新聞に「金の卵」と書かれた女子中学生たちは工場の寮へ入って集団生活をする。
「薫の家に下宿するから、そんなに心配していないけれど、札幌は大都会だから、この辺とは違うでしょ、いろいろ」
「列車で2時間半だ、何かあればすぐ駆け付けられるから心配するな。人の釜の飯を食うのも鍛錬になる」
「心配だから言うのではないの。話として聞いてよ。私と子供たちにとっては初めての体験なのだから」
 氷下魚を食べるとビールが進むが、フミはさすがに満腹で、一本でやめておく。台所に立ち、手拭きにタオルを絞って持ってきた。
女が車を運転するのもそうだが、自由に酒を飲むというのも世間的にはそうそう出来ることではなかった。
 圭二郎は、昔から女への偏見を持っていない数少ない男だった。新婚の頃から、家で妻と一緒に飲むのを楽しんでいた。こちらへ転勤で来てからは、仕事の付き合いが増え、フミも子育てで機会が減った。
 マヨネーズが付いた指をタオルで拭く時、タオルに丸加と書かれているのを見て、圭二郎は話しを変えた。
「今日の昼休み、柿崎が信金に来てね。砂川福子のことを話していった」
「何かあったの?」
「3ヵ月入院していたが症状の改善がないから、外科の早坂先生と精神科の先生で話し合った結果、精神科病棟へ移すということになったそうだ。記憶が戻るまで、会話ができるまでということらしい」
「記憶喪失かもしれないって言っていたわね。まだ全然話せないの?」
「記憶が戻る時期は人によってまちまちだから、様子を見るしかできないそうだ。外傷のせいでなった失語症の場合は治らないと言っていた」
「15歳で精神科に入院って、なんだか可哀そう」
 河川の合流地帯に結び付く上流市町村の管轄警察署に問い合わせても、該当する行方不明者がいなかったことは年明けに聞いていた。当初、関係する市町村は砂川、滝川、赤平、深川、新十津川、雨竜、妹背牛の七つと考えられた。が、雪解け時期や大雨後のように水量が多くなければ、上流の妹背牛、深川、雨竜、芦別からは、距離があり生きて流れ着く確率は低い。発見日の前日は、地面が白く被われる程の初雪が空知地方一帯に降った。
 残った4か所からも若い女性の捜索願は1枚も出ていない。結局、遠方から来た女が、事故か自殺で川に流されたという可能性が大ということに落ち着きそうだという。
「せめて筆記か何かで会話ができればいいのだが、鉛筆を持たせてもじーっと紙を見ているだけだと」
「聞こえているのかしら」
「病棟の中では、トイレに行くのも風呂に入るのも、ご飯を食べるのも普通にしているから聞こえているのは確からしい」
 圭二郎が、福子を労しいと思っているのがよくわかる。助けた命が喜ばしい方向へ進んでいかないのがもどかしく心残りなのだ。
「柿崎は入院費の関係もあるから、近々、戸籍回復の手続きをすると言っていた。生活保護を受けられるようにね」
「戸籍回復って?」
「記憶喪失者が生活できるように、申請すれば家庭裁判所で仮の戸籍を作ってくれる。記憶が回復するまでということだ」
 圭二郎の気持ちは、フミにそのまま伝わっていく。福子の気持ちが案じられた。
「話したり、聞いたりできないということは、一人で暮らせないということね。記憶が戻らなければ、生活保護を受けて、一生そこで暮らすことになるのかしら」
 氷下魚は塩分が強いのか喉が渇く。マヨネーズのせいかしら、と思いながら水を取りに立った。酔いが回った自覚はほとんどない。酒が強いのは父の血筋だ。
「あなたもお水要る?」
「ああ、もらう」
 丁度、フミの実家から引っ越し祝いに贈られた、居間のボンボン時計が10回鳴った。
 外へ飲みに行った日に、圭二郎が帰ってくるおおよその時間だ。日を跨ぐことは滅多にない。飲み屋街も店仕舞いし始める時間だった。秀二が降りてきて洗面所で顔を洗い、歯を磨いている。
「明日から春休みでも朝はきちんと起きるのよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 秀二はすでに眠そうで、圭二郎にも顔を見せて挨拶をし、2階へあがって行った。
 冷たい水を食卓に置き、食器を片付けながら夫を見ると、宙を見ながら考えこんでいる。水のグラスを手渡しても何かそぞろだった。福子のことに気を取られているのだろう。
「わたしに、何かして欲しいの」
 そばへ坐り圭二郎の膝に手を置いてのぞき込む。
水を飲んでいた圭二郎が思いっきり噎せた。フミの顔を見てまた咳込む。あっけにとられたフミが、思い至って笑い出す。
「そういうことではなくて、福子さんのことよ」
 圭二郎の背中を思い切り何度か叩いた。
「ありがとう……咳が治まった。わかっているよ。むきになるな」
 咳は治まったが笑いが残った。少しして、幾分改まった口調で言う。
「面会に行ってやってくれないだろうか。男の俺では癒しにも励ましにもならないと思う。フミは彼女の母親の年齢に近いだろう。話せなくても、顔見知りになって少しでもそばにいてやったら、気持ちが和むかもしれない。何回かすれば心を開いてくれるかもしれない」
 フミは、精神科病棟の実際の雰囲気は知らないが、窓に刑務所みたいな鉄格子がはまっているイメージがある。賢一のことも一段落したことだ。福子に会いたい気持ちもある。どんな娘なのだろうか。  
 福子の話をする時、圭二郎の切れ長の目が悲しげに見えるのも気になっている。
「賢一の入学式が終わったら、会いに行くわ。男の子しか育てていないからどんな風に接していいかよくわからないけど」
「君なら大丈夫だよ」
 圭二郎はほっとしたのか、また新聞を開いたが眠そうな顔で欠伸をした。

 4月15日火曜日午後2時、フミは右腕に風呂敷包みを抱え、左肘にハンドバッグを下げて家を出た。西5条北の自宅から、砂川市立病院の福子のところへ初めて面会に行くのだ。
 薄曇りだが南の空はどんよりとしている。砂川市の南、豊沼町には大きな接着剤の化学工場があり24時間稼働していた。北海道は降雪が多いので、住居の屋根は柾屋根かトタン屋根、と相場が決まっていたが、工場の社宅の屋根は全部瓦屋根だった。工場の煙突からもくもくと出ている煙と何か関係があるのだろうか。フミの周りには社員の家族がいないので、詳しいことは何も知らなかった。
 病院までは500mほどの距離だ。包みには女物の下着が何組かと、靴下やハンカチが入っている。何かのきっかけになるかと、今まで手にしたこともない女の子の漫画雑誌も1冊買って持ってきた。
 圭二郎の言うように本当に話せないのか、どうして話せないのか。今日、実際会って自分が少しでも納得できれば、どう接したらよいのかが見えてくるような気がしている。
 市立病院の精神科病棟は玄関口が別にあった。病院の裏側へ廻り少し行くと、平屋の広い建物がある。中央に玄関があり、中へ入ると受付の窓が開き、職員に訪問の理由を尋ねられた。面会に来たと説明すると、指示されて面会者ノートに住所や名前と患者の関係を記帳した。親だったり、兄弟だったり、様々な筆跡の面会者の名が並んでいた。ノートを戻すと、職員が患者の病棟へ確認の電話をかけた。
 フミは下駄箱に脱いだ靴を入れ、茶色のスリッパを履く。廊下は人の気配がなくひっそりしている。立ったまま5,6分待たされた。
 受付から出てきた職員に案内されて、廊下を右へ折れると分厚い木の扉があった。その職員は、腰に紐で結わえ付けていた黄色っぽいキーを廻し開けた。中に白衣姿の中年の看護婦が立っており、開放病棟の婦長田村だと名乗った。フミが中に入ると職員は鍵を閉めて受付へ戻って行った。
 田村は先に立って歩いていく。左側は中庭に面しており、反対側に部屋がいくつか並んでいる。三番目の部屋の引き戸のガラスには『遊戯室』と書かれていた。戸は開けっ放しで、中に入るといくつかのテーブルとパイプ椅子があり、奥の方で二組が卓を囲んで麻雀をしていた。ナースキャップをつけた看護婦が両方の卓に入っていた。卓の傍に患者二人が座って麻雀を見ている。  
 田村は遊戯室へ入り、続き部屋へフミを連れていった。細長い部屋で、机と二脚のスツールが置いてある。部屋の窓は大きく遊戯室を見渡せる。
「ここが面会室です。花村さんの奥様ということなので、砂川福子さんの様子は聞いていらっしゃると思いますが、意思疎通が難しいので、困ったら声をかけてください。隣の部屋には必ず職員がいますから」
 言われて振り返ると、遊戯室の反対側にもガラス窓が並んでおり、白衣の看護婦が数人立ち仕事をしているのが見えた。看護婦詰所と遊戯室の間に面会室があるのだ。
「それから、そのお荷物ですが……」
「これですか。福子さんが使うかと思って、下着をいくつか持ってきました」
「ありがとうございます。マジックを持ってきますから、カタカナで名前を書いておいてください。他の患者さんが間違えないように」
「漫画雑誌を持ってきましたがそれにも名前を書きますか」
「はい、お願いします」
 婦長が出ていくと、緑のビニールシートのスツールに腰かけた。緊張感で胃が引き絞られるような気がした。
「そうよね、名前書かないと誰のものかわからなくなるわね」
 思いつつも、ここはそんな人ばかりなのだろうかと心配が増える。
 一組のゲームが終わったのか、立ち上がってメンバーが入れ替わっているようだ。フミは、患者たちは私服を着ているが、どの女も短い髪でずんぐりと太っているのも、表情の少ない顔つきも、動作がゆっくりなのも、よく似ていて戸惑った。

 持参した下着に、目立たないようにマジックで福子の名を書いていると、婦長が女の子を連れて部屋へ入ってきた。身長は婦長より小さく、色白で痩せている。短く切られた黒髪が顔の白さを際立たせていた。右額の上の方に薄赤い傷が前髪に隠れて少しだけ見えた。
「砂川さん、この方はね、あなたの命の恩人の花村さんの奥様よ。あなたに会いたいって来てくださったの。ご挨拶してください」
 福子は、フミを見た。アーモンドの形のくっきりした二重の目だ。視線は合わせたが何も言わない。頭は動いたが、下げたのか、かしげたのかがよくわからなかった。
「初めまして、今日は」
 フミが頭を下げて笑いかけても福子の表情は変わらない。今度は、少し頭を下げたよに思える。
「持っていらした下着のことなど、砂川さんに話してあげるといいと思いますよ。帰る時は詰所に声をかけてください」
 婦長が出ていくとき、どうすればいいのか一瞬判らなくなった。引き留めたくなったが思いとどまり、福子に聞こえぬように深呼吸をしてゆっくりスツールに座った。福子にも座るように掌で促したが、聞こえているようだったのを思い出し「座りましょう」と声に出した。
 福子は座った。両手を膝に置き、机の上の下着を見詰めている。婦長の助言に従って下着の話からすることにした。
「うちには女の子がいないし、福子さんの好みもわからなかったので、白ばかり買ってきたの。下着は替えがあったほうがいいと思って。どう?」
 多分頷いた、と思う。フミは少し自信を持った。
「でもハンカチや、靴下はいろんな色があるから、迷ったわ」
 15歳だとしたら中学3年生だ。女子生徒が使っているようなのを選んだつもりだ。
 黄色、桜色、水色、黄緑色の4枚のハンカチと、白に赤や紺色の線が入った靴下4足を福子の前に並べた。
「婦長さんが名前を書いた方がいいというので、カタカナで、できるだけ小さく書いたのよ」
 フミは靴下の裏側やハンカチの隅を見せた。
「あまりうまく書けなかったの。ごめんね。今度持ってくるときは、糸で名前を刺繍して来ようと思っているわ」
 福子はまたまっすぐフミの目を見た。眼差しには何かの意味があるようだけれど汲み取れない。性急に親しさをあらわにして福子の重荷になるのを心配して、心の中で「何か言って」と呼びかける。少し待ったけれど言葉は発せられなかった。
 隣の部屋でガタガタと音がし始めた。麻雀を終わって片付けている。パイプ椅子を畳み、卓を片隅に寄せ終わると、8人の患者が一列になって遊戯室から出ていく。同じように見えた女たちは身長だけはそれぞれに違っていたし年齢もいろいろで、1番年長は60代、若いのは20代だろうか。ぞろぞろと廊下を面会室の反対側へ歩いて行った。傍にいる看護婦は、特別命令しているようにも見えない。長年の習慣で動いているのだろう。腕時計を見ると午後3時だった。
 福子に目を戻すと、同じように患者たちを眺めていた。見たことがないものを見るように。
「そうそう、雑誌も持ってきたのよ。女子中学生って漫画なんか読むかしら」
 よけてあった風呂敷の中から少女雑誌を出した。4月号で、表紙の絵は、桜の花に囲まれた女の子だった。くるりと回して福子の方へ向けて滑らせた。
 表紙を眺めていたのは2,3分だろうか、随分長い間に感じたが、フミを見上げた。その眼差しはフミに許可を求めていた。
「福子さんへのプレゼントよ。うちは男の子しかいないから、冒険王しか買ったことがなかったの。ちらっと見たけど、面白そうね」
 福子が笑ったと思った。口角がわずかに上がったのだ。
「どうぞ」
 福子は、遅すぎるくらいゆっくりと親指をあてて表紙を開いた。そこからは我を忘れたのかページを捲るのが少しずつ早くなった。表情はまるで普通の子供のように幼気ない。
 ページが進むにつれて、眼差しが動き、頬が動き、唇が何かを語る。物語の中に入り込んでいるのだろうか。
 半分ほど進んだ時、はっとした様子で福子は手を止め、フミを見詰めた。楽しさ、不安が綯い交ぜになった顔つきだ。
「裏表紙に、砂川福子って書いておいたから、お部屋へ持って帰っても大丈夫よ」
 福子は、今度はゆっくりと大きく頷いた。
「私の名前はカタカナでフミ。花村フミです。縁があって知り合えたのよ。仲良くしましょうね」
 福子は小さく頷いた。フミは、今日はこれで十分だと思った。
『こんなにもはっきりとメッセージを送ることができるのに、この子はここにずうっといなければならないのだろうか』
フミは、緊張と思惟で疲れ切っていた。
「また来るわ。何か必要なものがあったら、考えておいてね」
 詰め所の看護師に合図を送った。立ち上がったフミは福子の肩に手を置き、優しく撫でた。
「また会いましょうね」
 看護師に送られ面会室を出て玄関へ廻っていく間、福子は雑誌を胸に抱きガラス窓越しにフミの姿を追っていた。

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