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長編小説 定食屋「欽」譚 (4)

2014年12月14日 

 選挙の日は雲一つない晴天だった。前日から晴れあがり、放射冷却現象がおこって冷え込んだ。美代子は鴇色のバンダナの上に毛糸の帽子を被り、マフラー、手袋と完全防備で赤いスノーボートを持って、3kmほど離れた市場へ向かった。道々、きゅっきゅっと靴の下で雪が鳴り、鼻先が痛いほど空気が冷たかった。雪に反射する日差しが眩しくて、帽子を目深に引っ張るが、寒さもあり涙目になる。
 帰り道、スノーボートに市場で仕入れた荷を積み、引いて『欽』まで戻ると、玄関の前に修司が立っていた。
「おはようございます。この前は失礼しました」
 帽子もマフラーもせずに、鼻も頬も真っ赤だった。両の手はジャンパーのポケットに入っていたが、頭を下げる時は両手を出して前にそろえた。
「こんな時間にどうしたの。それに失礼なことなんて何にもなかったでしょ」
 美代子は鍵を開けて店に入り、修司を招き入れた。エアコンの温度を上げ、石油ストーブのスイッチを入れて修司をその前に坐らせた。
 笛吹ケトルをガスコンロに掛け、湯を沸かす。
「朝ごはんは食べたの? パンならあるわよ」
「食べてないです。朝は食欲ないんで食べないことが多いです」
 「若い者が朝食抜きなんて」と美代子はぶつぶついいながら、近所の評判のパン屋『ココ』の全粒粉パンをこんがり焼いて、バターとマーマレードをたっぷり塗り修司に勧めた。ケトルの湯で、いつも飲んでいる深煎りのコーヒーをドリップした。修司に砂糖と温めた牛乳がいるか尋ねた。
「僕、ブラックでいいです。パンが旨い。こんな旨いパン、初めて食べます」
「近くにおいしいパンを売るお店があるの。うちの朝はパン食なので、そこで買うことが多いかな」
コーヒーの香りが音のない店内に漂う。修司は、パンを食べ終わると、電気ストーブで暖まった膝を少し引いて美代子の方を向き、ためらいながら話し始めた。
「話したいことがあって来たんですけど、今いいですか」 
「私でいいなら聴くけど、どうして私に」
 修司は一瞬まごついた。今朝、この店に向かった時から考えていたのは、何から話すか、どう話すか、嫌がられないか、断られないかばかりだったからだ。仕事の邪魔をするという遠慮はあった。その分を手伝おうとも考えていた。しかし、まずはなぜ小母さんになのか、だった。美代子に話したくなった理由を考え考え語る。
 修司の同郷の知人が、北三条通り公園に面したマンションに住んでいる。『欽』にも時々来ていた。その知人が修司に『欽』は、ばあちゃん家みたいな親戚のおばさん家みたいな良さがある、といつも賞賛していた。大学に入学当初、1度連れて来てもらってから先輩達とたまに来るようになったと話す。
「角川先輩たちとの飲み会の時、少し飲み過ぎてゲンカイ党とか、変なこと言ったけど、あの時、小母さんは傍にいて縫物していて、何にも言わずに僕たちの話を聞いていた。この店の心地いい雰囲気と小母さんは同じで、何でも聞いてもらえる、何でも話したくなる気がする。壁がないっていうか…」
 美代子は『煙たがられることも多い』と茶々を入れたくなったが、修司の生真面目な顔つきを見て、唾を飲み込んで取りやめた。
「亡くなった母のことを他人に話したことがありません。話す相手はいないし。最近、母のことをどう考えてよいのかわからなくなっています。誰かに自分の考えを聞いてもらったら、母のことがわかってくるのかな、と思うようになって。聞いてくれるのは誰かなといろいろ考えたら、ここだった。自然に居心地いいし、おばさんはどんな話聞いても驚かなさそうだし」
 自然に居心地いい、という言葉に美代子は相好を崩した。笑顔を見て修司は安心したのか「ほうっ」と溜息をついたのを聴き取り、今度は声に出して笑った。
「昼の仕込みをしながら聴くけど、いいかい」
 修司が却ってその方が話しやすいというと、美代子はカウンターに椅子を置いてコーヒーカップを移した。修司を座らせると自分は厨房に入った。

 2013年 

 修司の父親、一瀬孝夫は7年前に45歳で脳内出血で倒れ、6か月闘病して妻優子と一人息子の修司を残して亡くなった。修司が中学1年の夏だった。
 働き盛りの中学の教諭で、春に隣の区に転勤して間もなくのことだ。入院して半年の間人工呼吸器から離脱できずに、在院日数の関係とかで亡くなるまでにあちこちの病院を転々として出費が嵩んだ。優子は貯蓄や学資保険を取り崩して、看病に明け暮れた。
 結婚した時建てた家のローンの残りは、孝夫が死亡すると団体信用生命保険で払込み済みになった。幾許かの生命保険も入ったが、修司の学費にと貯めていた金額を取り戻す程度だった。生活を切り詰めた。遺族年金では家一軒の維持費と2人が食べていくのでやっとの状況だった。
 修司は孝夫が亡くなった後、中学3年になるころには大学進学を諦め、高卒で就職するなら工業系の高校へ進学しようと考えるようになった。中学校の担任や親戚の者が、高卒で働くと話す修司の学力を惜しんで、何かと優子に働きかけが続いた。公費の援助や奨学金のこと等、考えられる手立ては提案しつくされた。
 2009年1月中旬、優子は受験高校選択の締め切りギリギリの日曜日に、修司を居間に呼んで大学進学を考慮して高校を選ぶように言い出した。
「何とかできそうだから心配しないで、あんたは勉強しなさい。お父さんもそれを望んでいたでしょ」
 ダイニングの広めのテーブルに、高校の入学願書が広げられていた。優子は書類のそばに手にしていた印鑑を置く。修司はいつもの席に着く。  
 東向きの窓から、庭のムクゲの立ち木越しに、裏の家の砂色の壁が見える。ムクゲには鳥の餌台を括り付けてあった。4年前に孝夫が朝飯の時にバードウォッチングができると据えたのだが、昨年の夏の台風で壊れ修司が修理した。小さな三角屋根に雪が積もっていて、今朝置いたパンくずはまだそのまま小山になっている。
「進路を変えることは、先生には電話でお願いしておいたから」
「僕は工業高校でいいよ。もし、もっと学びたくなったら、大学へ編入もできる」
 変声期特有のかすれた声で返事をする。
「前はお父さんの母校の北大へ行きたいって言っていたじゃない。もともと工業高校目指していたわけじゃないでしょ。私が仕事持つと、あんたは高卒で働かなくても良い環境になるの。本当に行きたい高校を選んで欲しい」
 寝耳に水の話ではなかった。母が昨年末に履歴書を書いているのを見たし、珍しくスーツ姿で出かけたのは先週だった。どこかへ就職するのだろうかと想像していた矢先のことだ。
「急なことで、受験勉強の内容も違って大変かもしれないけど、その分は頑張って高校で取り返してほしい」
 優子は買い物があるからとトートバッグを持って家を出た。以前の母よりきびきびしているかもしれない、と後姿を見送りながら思い、僅かな不安が薄れ消えていく。
 修司は、願書に進学校名を書いた。書き漏れがないか点検していると、陽が射して窓辺が明るくなった。砂色の外壁にムクゲの枝が映り込み、ちらちらと小さな影が揺れている。首を伸ばして餌台を見ると、家雀が何羽も寄ってきていた。
「お父さんの狙い通り、今でも、部屋に居ながらにしていろんな小鳥をウォッチングできているよ」
 父親が亡くなってから、いろんなことが思い通りにいかないことに疲れ切って、部屋に閉じこもることが多かったが、久しぶりに小鳥の営みを見る自分の心が晴れ上がっているのを知った。

 優子は仕出し弁当屋で働き始めた。短大で栄養士の資格をとったが、卒業後すぐ結婚し、以来主婦だったため何の経験も持っていなかったが、前向きで負けず嫌いな性格だった。修司に似ていて小柄で、少しばかり肥ってきていたが、若い時から病気一つせず、健康的で体力もあった。
「修司がいるから、頑張る甲斐がある」といって、臨時雇いでは息子を大学にやれないと、働きながら2年で調理師の免許も取り、2011年春から正社員として小規模の老人病院『稲都病院』の厨房に勤め始めた。資格を生かして栄養士に欠員が出たら、移動したいと希望してもいた。
「私にだって出来るんだからあんたも頑張って」
 一つ進歩があると、頬を紅く染めながら修司の背中をバンと叩き、誇らしげに言うのが決まり文句の一つだ。
「進学して、卒業して、お父さんを安心させて」というのもあった。
 修司は高校入学後、落ち着いて進学の勉強に集中できるようになった。父と同じ大学を目指していたが、孝夫のように教諭になるかどうかは決めかねている。時間を掛けて自分がしたいことを探すことができる境遇に感謝した。

 修司が第一志望の大学に入学した2013年の夏、優子はまだ栄養課へ移っておらず、職場の厨房で倒れた。早番で6時前に出勤し、遅番の同僚の1人が身内の不幸で欠勤したため続けて遅番に入り、13時間目の後片付けの最中だったという。
 その年の7月から8月にかけて、札幌は猛暑日が記録的に続き、雨が異様に少なかった。全国的に、熱中症で亡くなる人が多いと報道されており、水だけでなく塩も摂れと盛んに言われてもいた。
 自転車通勤の優子が家を出た時間には、まだ涼しい風が吹いていた。水やりする手のない道路淵の草は干からびてそよぎ、風が強いマンションわきの道路は砂埃が舞った。その日も午前中に真夏日を超えた。
 病院の当直医が、厨房の床に倒れた優子をAEDで蘇生したあと、看護師が点滴を繋ぎ、心電図を取った。意識は一度も戻らず、当直医は過度の脱水と虚血性心疾患だと診断し応急処置をして救急車が呼ばれた。治療内容が救急隊員に伝えられ、琴似の救急当番病院へ運ばれた。
 修司のスマホに連絡が入ったのは、教育学部内のサークル室で、不登校児の学習塾の開設者とボランティア講師の打ち合わせをしている時だった。自宅では連絡がつかなかったため、優子の身元保証人の孝夫の兄、一瀬勇の会社に電話が入り、修司に繋がったのだ。
 学部から札幌駅まで走り、電車で琴似へ向かった。琴似駅からまた10分位走って、二十四軒に近い救急当番の琴似病院へ着いたのは、大学を出てから30分後だった。琴似病院に着いた時、修司の全身は、汗で土砂降りに合ったかのようにずぶ濡れで、顎から汗が滴り落ちていた。
 夜間救急の出入り口の灯りは弱々しく瞬いていた。白いワイシャツの胸に、ネームタグをぶら下げた痩せた男が、自動扉の前で煙草を喫っていた。走り寄って、母の名を告げると、男はすぐに煙草を足元のコーラの缶に落した。扉を開けて修司を招き入れ、突き当りの救急治療室へ行くように右の廊下を指差した。
 小走りで右に折れて進むと誰かの叫ぶ声が聞こえた。修司の名を呼んでいた。
「修司君。ごめんね。こんなことになって」
 厨房の責任者、管理栄養士の高木だった。
 修司は母の職場の病院の外来でインフルエンザのワクチンを受けたり、腹痛で掛かったりしていて、高木の顔は見たことがあった。他にも見知っている顔がいくつかあった。誰もが両目を赤くしてハンカチを握っていた。
 高木に引っ張られるように病室に入って、ベッドに臥床している母を見た。看護師が母親にのしかかるように心臓マッサージをしている。心電図のモニターや点滴の機械や酸素マスクに囲まれて、両目を閉じていた。真っ白い顔に白髪交じりの髪がべったりとくっついていた。 
 修司が部屋に入ると、医師が看護師と心臓マッサージを変わった。医師はモニターを見ながら心臓マッサージを繰り返したが、波形のリズムは医師の動きと同じだ。間もなくマッサージをやめると波形が平らになった。医師は聴診器を母の胸に当てた。次に両の目にペンライトを当てた。そばの心電図モニターの平坦な波形を眺め、腕時計を見、修司の方を向いた。
「息子さんですか」
 修司は頷いて医師の目を見詰めた。
「残念ですが、たった今、21時15分にお亡くなりになりました」
 深々と頭を下げて医師は病室から出て行った。点滴を止め酸素を止め、モニターの電源を切って看護師も病室から出た。自分の到着を待っていてくれたのか。病院の儀式なのか。いらぬ考えが、修司と母の距離の間隙に浮かぶ。
「一瀬さん」
 同僚や高木が口々に優子を呼ぶ。修司はベッドのそばに跪いた。母の頬に掌を当てると温かかった。額に張り付いた髪を手櫛でかき上げた。いつの間にこんなに白髪が増えたのだろう。唇も頬も紙のように真っ白なのに、温たかい。布団の中の母の手を探した。握ったが、温もりはあるのにだらりと力ない。
 今朝、優子は修司が寝ている間に職場へ出たので、言葉を交わしたのは昨日の夜だった。風呂から上がったばかりで、滑らかで艶々した赤い頬の優子がいった。
「明日は早出だからもう寝るね。修司も早く寝なさいよ」
 母が作った親子丼を食べている修司に、声をかけたのが最後だった。口にたくさんほおばっていたのでろくな返事をしていない。

 通夜の席で、稲都病院の事務長と高木が修司の前に座し、そろって頭を下げた。
「水飲む時間もなかったんですか」
 修司は、まとまったことは何も考えられなかったが、退院する前に担当医から死に至った経緯の説明を受けてから、頭の中を水、脱水という言葉が繰り返し廻っていた。口の中がからからになるぐらい唾を何度も飲み込んだ。腰が落ち着かなかった。何に向かって吐き出したらいいのかわからない、ちりちりした炎のようなものが胸の内を焦がした。
「飲んでいたと思います。職場でも熱中症対策として、2.5Lのボトルに何本かスポーツ飲料を作っておいていつでも飲めるようにしていました」
 高木の声に修司の心が応えていた。『そういえば普段から、お茶や水を好んで飲まなかったな』
 顔を挙げると母の遺影が笑っていた。大学の入学式の時、修司と並んで写したもので、優子がとても気に入っていたから、葬儀の担当者に言われるままに使った。
「一瀬さんは真面目で、病院にとって、大変貴重な人を失ったと思っています。とても残念です」
 事務長が再び頭を下げた。
「母でなければならなかったんですか。遅番」
「ごめんね。ぎりぎりの人数でやっているから、かわりがいなくて。一瀬さん気持ちよく引き受けてくれたから。頑張り屋さんだった。修司君のためにと言って、いつも残業も進んでやってくれていたの。それで頼みやすくて」
 2人は3度目、頭を下げて修司から離れた。また母の笑顔を見る。一張羅の藤色のスーツを着た優子の頬は、あの夜と同じく、艶々として赤かった。胸の炎が胃に飛んだ。胃が燃えるように痛む。
「頑張るなよ。死ぬほど頑張るなよ」
 額縁の中の母に向かって声に出して言うと、修司は膝頭を両手でつかんで背中を震わせた。

2014年12月14日

 美代子は、ゲンカイ党の党首修司が、話し終えてティッシュで鼻をかむのを見て、自分も指で目頭をぬぐった。
「真面目もいい。一生懸命なのも。でも、もうちょっと息を抜いて、自分のことを考えて欲しかった。もうすぐ楽をさせてあげられたのに。そう思うとくやしいよね」
 修司は大きく頷いた。美代子が自分の心の中を見越すのを不思議には思わなかった。わかってもらえるからこの人に話したくなったのだ、ということが今良くわかる。
「今は悲しいでも悔しいでもないんです。勝手に働きすぎて、倒れていなくなった。感謝しなければならないのだろうけれど、なんでそこまで、という気持ちが強くなってしまって」
 牛蒡をスライスしていた美代子は立ち上がった。修司の言葉に何が言えるだろうと、首を何度も振る。
『こういう時は腹いっぱいになるのが一番ではないか』美代子の蘊蓄である。
「お昼の客が来る前に賄い飯にしましょう。昨日の火鍋の仕込みの残りでチゲでもしようかと思っていたの。辛いのが大丈夫だったらだけど」
 話し終えた修司の表情は、最後の言葉の際どさの割に、清々していた。
「嬉しいです。手伝います」
 厨房に入って、自分が使った皿やカップを洗った。

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