定食屋「欽」譚 (5)

2015年1月4日    

『欽《よし》』は、いつもの年のように、年明け4日から店を開けた。新装開店した28年前、美代子は夫泰蔵と、毎年正月三が日と盆の三日間は必ず家にいると約束したからだ。
 当時、泰蔵は北海道の新聞社の広告部に勤めており、それなりの収入はあった。美代子が客商売をするというのを支持したことはなかったが、折に触れ意志の固さを見聞きし、強く反対はしていない。
 子どもがいなかったのが大きな理由だ。美代子が何年もかけて、料理を習い、知人の店を手伝いながら調理師の資格を取り、税金の勉強をし、着々と開店準備をしていくのを傍目に見ながら、どこまでやるのか楽しみだと思うまでになった。
 サンライズマンションの1階西角のラーメン屋が撤退するのを耳にしてからは展開が早く、ふた月弱の開店準備は美代子が大方一人でやってのけた。店名の『欽』は兄の名前からもらったというのは事後承諾だったが、兄への思い入れの深さを、泰蔵は理解してくれていた。
 泰蔵が『欽』に顔を出すことは稀だ。家にいて夕食が必要なときは、仕事の合間に作ったものを美代子が届ける。
 4年前に定年退職した泰蔵は、中堅の広告会社に顧問として入った。その頃から、昼や夕食時ブラリと店に顔を出して、食事をしていくようになった。しかし酒は自宅でしか飲まない。酒の席での美代子を見るのが嫌なのか、理由らしきことは何も言わない。
 『欽』の定休日は水曜日だが、不定休でもある。食材の仕込みの関係や、予約が入ると開けることもある。盆や暮れは、札幌へ帰省した客から開店しているかという電話が入るが、開店以来の習慣を変えた事はない。

 4日はあいにくの大嵐で、気温が例年より高いため、重たい雪が横殴りに降っていた。マンションの南西の壁一面に雪がへばりついて、『欽』の出窓の硝子も半分以上雪で隠れていた。
 10時頃、配達に来た酒屋の若者が、店と車を何回か往復する間に、頭が真っ白になり、首に巻いたマフラーがほどけて飛んだ。
「仕事始めだというのに、ひどい天気になってしまいましたね」
 若者は美代子が出した熱い茶を飲みながら、手渡されたタオルで頭と顔を拭った。
「気を付けて運転してね。こんな日は誰も前を見てないから」
「確かに」と笑いながら、空き瓶の入ったケースを抱えて店を出るのを見送った。「毎度」と言ったのだろうか、若者の声は千切れるように扉の向こうに消え、熊鈴の音が残った。
 初日から店を閉めるつもりはなかった。市場の初セリは週明けなので、嵐の中、やっと拾ったタクシーで、桑園のスーパーマーケットまで行き、生野菜などの食材を仕入れた。
 昼少し前、美代子は、いつもより早くスタンドランプに明かりを燈し、大食卓の角の椅子に腰かけて、20cm四方のチョコレートの空き缶を開けた。中にはいろいろな形と色のビーズや、ナイロン糸やボンドやらが入っていた。髪に止めている飾りピンは自分で作っていた。白色のシャーククリップに、ビーズを編みこんだ花の飾りを付けようと、青色系のビーズをより分けはじめた。
 窓ガラスを揺さぶるほどの風が吹き抜けた時、扉が開いた。雪を叩き掃った跡が付いたフード付きのダウンコートの背の高い人物が入ってきた。雪が絡みついたファーが顔を隠している。フードを後ろに降ろしたのは、悟だった。
「こんにちは。いや、明けましておめでとうございます」
 寒風に頬を打たれたからか、左顔だけが真っ赤だった。
「こんな天気だっていうのに、よく来てくれました。明けましておめでとうございます。一番乗りよ。嬉しいわ。新年早々大荒れで開店休業かと心配だったの」
 美代子に似合わず弾んだ口調は、不安が真実だった事を窺わせる。チョコレートの缶へ道具を片付けながら悟を見上げた。
「仕事はいつから始まるの?」
 悟の家は円山辺りだと聞いたことがあった。雪にまみれているところを見ると歩いてきたのだろう。
「来週からです。朝から吹雪いていたから、今日ならお客さんが少ないかなと思って来ました。いや、少ないのは困りますよね……なんかすいません」
 言葉の仕舞いの方は、口の中でぶつぶつと消えていった。
「謝ることないよ。日本人はすぐ『すいません』と言いすぎる」
 美代子はいつもの調子に戻って立ち上がり、悟にハンガーを渡した。悟は脱いだコートの溶け始めた雪を振り払いハンガーに掛け、出窓のそばのフックにつるすと、西側の壁に貼ってある写真の前に立った。黒っぽい石の文字をなぞる。
「前に、この石のこと聞いたら、お守りと言っていましたよね。なんかずっと気になっていて。『森の子』と彫ってあるし」
 悟は美代子のその時の表情も気になったとは口にしなかった。
「それがこんな嵐の日でも来てくれた理由なの? まさかね。お正月はどうしていたの」
 昨年のクリスマス前の日曜日に、父健二が家を出て高山千春のところへ行ったと話しはじめる。大きめの旅行鞄一個に荷物を詰めただけの引越しだったという。正月を彼女の部屋で一緒に過ごそうと誘われたが断ったと話し、一息ついた。  
 健二は大晦日にも自宅へやってきて、一夜飾りだが、と言って神棚に牛蒡締めを飾り、小さなパックの鏡餅を備えて、柏手を打って帰って行った。坐って話をするでもなく、ほとんど顔を見合わせることもなかったという。
「大みそかはカップ蕎麦。年明けはコンビニでおせちとみかんを買って食べました。後はテレビを見たり、本を読んだり。店開きは4日と聞いていたので待っていました。ひどい荒れだけど、ここの料理が楽しみで飛んできたようなもんです」
「昼、雑煮にしようか。まだ食べていないでしょう」
 悟は何か手伝いますかと聞いたが、美代子は「お雑煮はお茶の子さいさい」と笑って厨房へ廻った。

 鈴が鳴った。悟が振り向くと、ダッフルコートの小柄な青年が雪まみれのまま入ってきた。頭に雪が載った毛糸の帽子を被っている。その姿を見た悟が驚いた顔をしたからか、自分のコートの雪に気付くとすぐに店から出た。張出しの外で雪を払い再び入ってきたが、悟の視線が帽子に止まったのを見て、また外へ出た。帽子の雪を丁寧に払っているのが扉横の小さな明り取りの硝子から見える。
 店に戻った青年は、悟に向かって照れたように頭を下げた。厨房から覗いた美代子が大きな声を出した。
「あれ、よく来たね。ゲンカイ党の修司君」
 美代子に向かって両手を前にして頭を下げ、正月の挨拶をした。からくり人形のような、いつもの修司の丁寧な動作だった。美代子は修司に答礼をしてから、悟を紹介した。
「澤木悟君。社会人だからいくつか先輩ね。こちらは大学二年生の一瀬修司君。修司君もお雑煮でいいかな。今作りかけているの。もう少しで出来るからゲンカイ党の話でもしていてね」
 修司の返事も待たずに美代子は厨房へ入った。二人には共通することが多いと思い浮かんだが言葉にはしなかった。白髪ねぎを作りながら、猛吹雪の中、父母と縁の薄い二人が、子供のいない私のもとへやって来たことに意味はあるのかと考えていた。頭の中に『森の子』と刻まれた石が浮かんだ。
 誰にも話したことはない。自分には話せると感じたことさえない。夫の泰蔵にも詳細は話せていない、あの日の森の有り様、兄欽一と恭太の話が喉元に蠢く。

 雑煮を大きめの丼によそい、白髪ねぎと三つ葉を多めにのせて、二人が坐っている食卓に運ぶ。悟と修司は、気が合うのか打ち解けてゲンカイ党の話をしていた。テーブルに藍色の大きなぼんぼりが付いた帽子が置かれている。ゴム編みの目に雪が解けて小さな水滴がびっしり並んでいた。
「お待ちどうさま。丸餅が5個ずつ入っています。お代わりあるので言ってね。たくさん食べても同じ値段だから」
「何個食べても同じ値段ですか」
 修司が驚くと悟が説明した。
「修司君、知らなかったんだ。ここはね、昼は800円で、ごご飯やお餅はお代わり自由」
「そうなの? 僕、よそではワンコイン以下のランチしか食べないし、ここへは先輩のおごりでしか来たことないから」と言って嬉しそうに箸を手にした。
 美代子はテーブルの帽子の水滴を床に振り落した。
「ぼんぼりが可愛い。手作りでしょう」
 言いながら、帽子の中に乾いたタオルを入れ丸くして、エアコンの風が通る本棚の上に置いた。修司が脱いだダッフルコートは、悟のコートの隣に掛けてあった。
「中学生の時、母さんがスキー授業用に作ってくれました。この前ここへ来た日曜日はすっごく寒くて。小母さんに『帽子と手袋ぐらい家にあるでしょ、ちゃんとした格好して歩きなさい』と怒られてから、家の中探したらいろいろ出てきた。あのダッフルコートは父さんのです」
 親の話にしてしまった、と美代子は気に病むが、修司の顔つきは穏やかだ。
「あれは怒ったわけじゃない」と言いかけると悟が餅を飲み込んで 
 言う。
「普段自分が使うものしか、置き場所ってわからないよな。家の中って、どこに何があるか子ども時代というか、母親がいるうちは意識していない。やってもらうのが当たりまえだったから」
 悟のも親の話になりそうだった。
「冷めないうちに食べてね」
 厨房に逃げたが、腰かける暇もなくすぐに呼ばれた。
「お代わり下さい。餅は4個」
「修司がそう来るなら僕は5個お代わり」
「じゃあ僕も5個」
 思わず美代子は「大丈夫かい二人とも。わたしは、競って食べるのはいやだわ」と言ってしまう。
 雑煮の鍋に丸餅を10個入れて温め直していると、二人で家の中の話をしている。風呂場の洗剤やトイレの洗剤、洗濯石鹸や柔軟剤、おしゃれ着洗い、酸素系漂白剤と塩素系。複雑で説明書きを読むのが大変だというところで意気投合していた。いつの間にか、互いに一人暮らしであることも、母を亡くしたことも判り合っているような口ぶりになっていた。
「夜、暗い家へ帰るのにまだ慣れなくて。朝、出勤する時玄関の電灯を点けて出かけている」
 修司が話しているのかと思ったら、悟の声だった。
「僕も、一年近くそうしていた。去年の夏、節電、節電と盛んに言われていたから、やめたけど。家が広く感じるのもあるでしょう。母が亡くなった年の冬中寒くて、暖房を入れても家の中が全然暖まらない。ストーブが壊れていると思って修理を頼んだら『どこもなんともない』って。広く感じるから寒いんだとやっと分かったから、今年は居間に机や本棚を運び入れて狭くした」
「ある、それ。広く感じて落ち着かないから、自分の部屋にずっといるし、部屋の温度も前より高くしているかも」
 雑煮が前に置かれると、二人は話をやめて嬉しそうに食べる。

「うちも昼食にするかな」
午後の1時少し前だった。嵐は止まず、人通りはほとんどない。美代子は厨房へ戻って雑煮の鍋を用意した。泰蔵の分を小鍋に分けてバスタオルで包む。身支度を整えてバスタオルを抱える。
「家の人のところへ出前に行って来るから留守番していてね。10分くらいで戻るから」
 手がふさがった美代子を見て、悟が立ち上がって扉を開けた。
「10分経っても戻らなかったら、捜索願を出してね」
 冗談で言ったが、張出しの中にまで吹き溜まりが出来、枠の角で雪が波打っている。張り出しの外へ出ようとすると雪が膝を超す高さに溜まっており、前へ進もうにも風が強く顔を挙げられない。悟や修司の足跡は掻き消えていた。振り向くと悟が扉を薄く開けたままこちらを見ている。捜索願などと冗談で言ったつもりだが、うっかりすると本当に遭難しかねない大雪だ。思い切って足を踏み出すが、風に押され、新雪が深く前へ進むのが大変だった。1,2歩で美代子は泰蔵へ昼食を届けるのを断念した。
「マンションの入り口まで10mしかないのに、行けないよ」
 戻った美代子は椅子に腰かけ、何回か深呼吸をして人心地着いたのか、荷物をテーブルに置いた。
「僕たちで道を開けますか」
 悟が言うと、美代子は首を振る。立ち上がって上着を脱ぐと電話をかけた。
「私です。雑煮を作ったけど、吹雪で届けられないの。こちらに来て食べるか、自分で何か見繕ってくださいな」
 しばらく泰蔵の話を聴いて、電話を切った。
「お昼はいらないけど、吹雪が一段落したら、雪掻きがてら様子を見に来てくれるって」
 誰にともなく伝える。
 二人は餅を平らげ、見るからにくつろいでいた。悟は、美代子の私的な部分に触れて、照れたように「旦那さん、優しいんですね」と言った。
「心配なのは、あなたたちが帰れるかってことよ。いざとなれば泊まってもらってもいいけど」
「今日は、夕方から天候は回復するって天気予報で言っていたから、きっと大丈夫です」と悟。
「二人で帰るから、大丈夫です」修司。二人して同じように返答をし、吹き出して顔を見合わせている。
「この雪ではお客さんも店には入れないわね。私が昼を済ませてから、あの石の話をする?」
 美代子は、考えてもいなかったことを口にした。勝手に出てきた口調は自信なげだ。自分は、この年の初めにあの石の謂れを話してみたい、と本気で思っているのか。今なら取り消せると、あらためて自らに問うが、答えは明瞭だった。
「興味があればだけど。この分だと話す時間はありそう」
「聴きたいです。修司はどうだ。時間はあるかい?」
「あの文字が彫ってある石のことですか?」
 修司は「夕方までここにいて、晩御飯も食べていきたいくらいです」と笑う。
「そう、だったらちょっと待っていてね。お昼を食べてしまうから」
 厨房で、バスタオルにくるんだ雑煮を出した。三つ葉がくすんだ緑に変色していたが、汁はまだ熱く餅は柔らかだった。
 悟は修司を本棚の前へ連れて行く。『森の子』と書かれた石を見せ、壁の写真に見入る。
「この石の謂れを聴けるんだ。『森の子』って、どういう意味なのかな」
 修司には石に刻んだ文字といえば、両親の墓の物しか思い浮かばない。

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