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定食屋「欽」譚 (12)

1988年3月20日 

 気もそぞろに、鯛の側面を処理する。流しっぱなしの水道水の音と、ステンレスのうろこ取りのガシガシという音が店内に響いている。いつもの有線放送のスイッチを入れておけばよかったと後悔するが、魚の処理が済むまでは、ほかのことに手を使いたくない。無意識に首を振って納得する。恭太を見るとビールを口にするのが見える。切り込みを口にするのが見える。何度も見てしまう。とうとう話しかけた。
「おなかが空いているのなら、何か作りますけれど」
「今はいいよ、これで」
「何時にここを出るの」
「5時過ぎたら行こうと思っている」
 写真の上の壁時計を見ると、4時半を過ぎている。
「余市の物だって聞いたけれど、この切込みはうまいね。日本を離れる前に食べられてよかった」
 美代子は思う。
『あと30分もないのに切込みなんて。何かもっと大事なこと話さなくていいの?』
「余市のまる原商店というところから取っているの。お客さんの評判がとってもいいのよ。ほかのものと比べてコクが強くて塩辛過ぎないところがね。日本酒の方が良ければ、美味しいのがあります」
 何か言わなければと焦っているのに、いつもの客の相手をするような通り一遍の事しか言葉にならない。
「気を遣わなくてもいいよ」
 恭太が立ち上がって「森の子」と彫られた石のそばへ行った。「あの時の石」と言いながら石に掌を置き、厨房の明かりを背に受けて、薄暗い中、壁の写真を順番に見ている。
「懐かしいな。欽ちゃんは年を取らないんだな」
 夕陽がビルの陰に隠れた。街路灯はすでに燈り、窓辺はぼんやり明るい。
日暮れに追われるように鯛の下拵えを終えて手を洗った。室内の電灯を点けるために、エプロンで手を拭いながら厨房から出てきた。冷蔵庫の上のスイッチを二つ入れると、西壁と南の壁の電灯が燈る。恭太は両手で石を持っていた。
「昨年、おじさんが亡くなったって母から聞いた。小母さんはどうしているの?」
 石を持ったまま美代子の方を振り向く。
「札幌に来るのは嫌だって。独りで暮らしているわ。父がその石を私に渡したのが気に食わなくて、ずっと疎遠だったの。そういうのもあってね」
 相変わらず、エアコンと時折唸る冷蔵庫のコンプレッサー以外、音はない。静かさが美代子を小声にし、恭太のそばへ寄せる。
「この『森の子』って、欽ちゃんのことを言いえて妙だよね」
 恭太の声も囁くかのようだ。石を丁寧に元の場所に置き「森の子」という文字をなぞる。左の薬指にリングは付けていない。横顔を見ながら、恭太を慕って北大まで行ったことが想いだされた。大人の恭太が目の前にいる。
「ずっと探していたよ。昨年、母から『巌さんのお葬式の時、就職以来初めて美代子さんに会った』『結婚して中央区に住んでいる』と聞かされた」
 恭太は腕時計を覗いた。つられた美代子は壁時計を見る。時間はいつも通り進んでいる。
「母は『狭い田舎でもそれ以上を知っているものはいない。和さんは詳しいことは教えてくれなかった』と。結婚して姓がどうなったかもわからない。勤め先の詳細もわからない。友人のつてをたどったり、中学の先生を頼ったりした。でも肝心なことは入ってこない」
「なぜ探したの。昔、もう会えないと思うって言ったじゃない」
 思わず知らず声が高くなり、一歩後ずさり離れる。あの日の風の冷たさ、池の波紋を思い出す。
「ただ、君の顔を見て、声が聴きたかった。自分勝手だけれどいつも、いつでもそう思っていた」
 幼い頃毎日のように一緒過ごした二人の兄を、あの日、一遍に無くしたのだ。一人はあの世へ、一人はこの世の最果てへ。幼い胸はどんなにかさみしく痛かったか、それに耐えた自分が、目の前にいる恭太をどう受け止めればよいというのか。
 美代子は自分も会いたくて傍まで行ったと言いたかったが、意思に反して、恭太を困らせる言葉しか口から出てこない。
「ただそれだけのために私の平安を掻き乱しに来たの?」
 恭太は、表情を曇らせた。
「申し訳ない。言い訳になるが、日本へ帰って来ない場合も考えている。日本でし残したことはないかと整理していったら、君が残った」
 恭太はコートを取り、身に着け始めた.美代子は、時計を見てあわてた。5時近い。
「偶然が僕に味方してくれた。君の声を聴き、顔を見ることができた。思い残すことはない」
「遺書みたいなこと言って、行ってしまうのね。自分勝手だわ。あの時と同じじゃない」
 美代子は恭太から更に離れ、扉を引いて大きく開けた。熊鈴の音がジャンと夜の帳に吸い込まれた。扉の動きに誘われるように、一陣の風が足元から店の奥へと吹き込む。「欽」の角灯を灯していない張出しの中は暗いが、足元は外灯に照らされて明るい。
 恭太から顔をそむけ、暖簾の影を見つめる。『もう時間よ』
「顔を見て、声を聴きたかったのは私だって同じよ。それをしなかったのは恭太兄ちゃんが私を見ると欽兄ちゃんを思い出して辛いだろうって……」
 恭太が美代子の右腕を引き寄せた。扉は静かに閉じていく。恭太の両腕が強く美代子を抱きしめる。大きな胸の中で美代子は目を閉じる。23年の隔たりが消えた。恭太の背に自分の腕を回し、力を込めた。

1988年10月20日 

 その年の10月初めに、「欽」の美代子宛てにアメリカから大きな包みが送られてきた。差出人は櫻田恭太だった。箱は段ボールケースで二重に梱包されていた。梱包用のバンドが固く幾重にも締めつけられていて、カッターを使ってやっとの事で切り外した。ポリの梱包テープも相当頑丈で剥がすのが大変だった。
 開けてみるとたくさんの発泡の緩衝材に埋もれ、プチプチしたクッション材に包まれて何かが入っていた。両手で持ち上げ、包装を外すと、ステンドグラスの笠とスタンドランプが出てきた。
 中身に行きつくのにかなりの労力を取られたこともあり、オレンジ色が基調のステンドグラスを目の当たりにした時、嬉しさと美しさに心が震えた。
 ステンドグラスには裸木の枝が写し取られていると思った。枝ぶりが大きくまたは緻密に黒く縁どられ、様々なトーンの黄色やオレンジ色のガラスが嵌っていた。
 説明書を見ながら、組み立てて完成したランプを食卓に置いた。コンセントを差し込み、紐を引く。薄暮の店内に暖かな明かりが灯った。見慣れた店内に違う世界が広がった。
 美代子が、木の枝が好きだと話したことを覚えてくれていた。恭太はあの時、確か『希望が見える』と言わなかったか。
 段ボール箱の底に白い封筒が入っていた。
「 大橋美代子様
 お誕生日おめでとう。
 私は、新しい職場で元気にやっています。仕事は日本ほどきつくはありません。
 こちらはパーティが多く、同僚や、アパートの住人の何人かと行き来するようになり楽しく過ごしています。
 愉快な同僚がいて、毎日アメリカンジョークの腕を磨いています。
 このステンドグラスのスタンドランプは、同僚の奥さんが作成した世界で一つの物です。日本で使えるようにしてくれています。
 オレンジ色は君に似合う色だと思うので、私が選びました。作品のテーマは「森」です。「欽」は和風な店なので、どうかな、とも思いましたが、君の店のどこかにうまく置いて、暖かな光を灯してくれれば嬉しいです。
 お体を大切に、幸せでいて下さい。
 それでは                 櫻田恭太   」

 生まれて初めての恭太からの誕生日プレゼントだった。

 3月の再会の日、抱きしめられて長い時間が経ったような気がしたが、恭太は5時過ぎに店を出た。ドアが閉まって一人になった時、身体が寒くて心細かった。
「このまま別れてしまうのだろうか。もう会えないかもしれないというのに。中学生の時とは違う……」
 しかし美代子は、厨房に入り仕込みにもどった。遅れを取り戻すために、鍋の中の、水を含んだ昆布に切れ目を入れてガスに掛けた。三枚におろした鯛をそぎ切りにして酒とショウガ醤油に付け込む。まな板の上で、粗を出刃でぶつ切りにして塩を振る。軽く塩を振った豚ロースに粉をまぶす。生姜をすり下ろし、みりんと酒と醤油を調合しておく。歯を食いしばっていたのか、両顎の関節がひくつく。黙々と調理をこなし、いつもの美代子に戻っていった。
 抱擁で2人の隔たりは埋まり、欽一と美代子と恭太兄ちゃん3人で撮った、無垢で楽しかったあの写真の頃に還ったかのようだった。

 スタンドランプを出窓の前に移した。窓ガラスに映ったステンドグラスが部屋の暖かさ、明るさを相倍してくれる。今までと違う時間が流れはじめる。ガラスに映った自分の姿は、オレンジ色のベールに包容されて床しい。
 その日から「欽」では夕方早めにスタンドランプが灯されるようになった。


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