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新しいヘーゲル (4)

第5章 近代とはどういう時代か

 この章では、ヘーゲル の「歴史哲学」の内容が紹介され、弁証法的な思考の発展過程が、今度は歴史的な側面から説明される。

 宗教改革、啓蒙思想、フランス革命だ。

 「すべての特殊な内容が動揺にさらされ、悪が善に、善が悪に転化する弁証法運動のなかで、最後に残るのは、内面性の純粋な活動、精神の抽象運動ーつまり、思考に他なりません」(p148)

 ルターの宗教改革は、「教会の権威を否定して、内面の信仰者が聖書にじかに学び、神とじかに関係するという構図」を導き出した。

 これは、新しいヘーゲル(3)で述べた、精神の発展過程に対応している。

精神は「芸術」→「宗教」→「学問」という流れで発展するが、宗教改革は、精神が「宗教」に到達した場面にあたる。

 もっとも、精神が実際にこのように運動するかは、現時点の科学をもってしても検証ができない。

 この宗教改革をさらにおし進め、精神を「学問」の段階に到達させたのが、啓蒙思想である(p157)。

 啓蒙思想が広まった近代社会では、「自然にたいしても、政治・経済・歴史にたいしても、芸術・宗教・哲学にたいしても、権威にとらわれない客観的で冷静な目をもってその実相をとらえようとすることは、多くの知識人に共通する知と思考の構えとなっていたし、そういう目のとらえた事実や知識は、同じ時代を生きる市民にとって、生活の基本的知識ないし文化的教養として価値あるものと受け取られた。」(p159)

 私は、この文句に強固な違和感を覚える!

 もしこれが本当だとすれば、市民のレベルが高すぎる。

 現代の10分の1以下の生産性の時代で、識字率も50パーセント程度だった時代の市民が、ここまで豊かな精神生活を送ることは不可能だったはずである。

 哲学が精神面だけに囚われると、社会の実相を明らかに見誤る。

 ヘーゲル は、この啓蒙思想が社会的な運動となった歴史的事件としてフランス革命を挙げ、賛美する(p166)。

 しかし、フランス革命の背後にある、聖職者・貴族・農民の間の権力闘争など、社会的基盤を離れたこのような分析は、机上の空論という感を免れない。

 ヘーゲル の哲学に、普遍的な真理があるとすれば、それは、ヘーゲルの分析が、現代以降にも通用する場合のみだ。

第6章 ヘーゲル 以降 

 この章では、現代におけるヘーゲル 哲学への批判が挙げられる。

 ヘーゲル 哲学には、普遍的な価値があるか否か。

 ヘーゲル 哲学には、大きな2つの弱点がある。

 1つは、人間の精神は、物質的な世界の上に発展したものであるという視点の欠如

 2つは、人間の精神は、感情や情動といった理性的でないものに大きく左右されるものである、という視点の欠如

 だ。

 1つ目の批判、物質性の欠如を指摘した急先鋒はマルクスだ。

 「人権の思想や自由と平等の理念は美しいが、現実の市民社会はそれに見合う美しさを持つとはとうていいいえず、思想や理念に携わるものは社会の美しくないゆえんをも解き明かさなければならない。」(p183)

 「歴史や発展は、物質的な生産や物質的な流通を拡大していく人間が、現実の変化にともなって、思考や思想を変えていくというかたちでしか生じえない。意識が生活を決定するのではなく、生活が意識を決定するのだ。」(p182)

 この批判は強烈であり、実際の社会を観察すれば、明らかにマルクスの指摘は正しく、ヘーゲル の体系のうち、自然学は生き残れない。

 外部の世界は理性を反映したものだ、という自然観は、自然科学に明らかに抵触しているほか、社会の実情を反映してもいないので、崩壊せざるをえない。

 しかし、現代自然科学の領域に、弁証法で説明できる部分があれば、ヘーゲル の論理学は意義を失わず、自然学を入れ替えることで体系を維持できる可能性が残る。

 2つ目の批判、情動の軽視を指摘した急先鋒はキルケゴールやフロイトだ。

 キルケゴールは、「人間の苦しみ、必要、情熱、悲嘆は、知によって克服することも変えることもできないむき出しの現実」だと考えた(p179)。

 ヘーゲル は、「おそれとおののき」「不安」は、「人間の意識の全体から見れば、感情という低い次元に位置づけられるもので、個としての人間も、そうした感情を克服することによって精神的な成長を遂げていく」と考えた(p175)。

 ヘーゲル のいうように、感情は低い次元のもので、理性の力で簡単に克服できるという見方は、明らかに経験に反している。

 この点をさらに突き詰めたのがフロイトだ。

 フロイトは「意識の領域の基底に前意識や無意識の領域を想定」したが、これは「意識から進んで自己意識、理性、精神へと高まっていく」ヘーゲル の精神現象学の立場とは正反対だ。人間には理性で説明できない根源的な衝動がある(p185)。

 人間の脳を解剖すれば、脳幹部があり、中脳・間脳・大脳があり、それらは相互に連絡し合っている。

 人間の精神が、大脳の理性的な活動のみから生じていないことは明らかで、ヘーゲル の精神学は、大きな修正を被ることになる。

 つまり、精神は情動と理性との相互作用により運動するものであり、決して理性のみで運動するものでない。

 したがって、ヘーゲル の精神学も、極めて一面的であるとの批判を免れない。

 もし、情動と理性との弁証法的運動によって個人の精神運動や集団の運動を描き出すことができれば、ヘーゲル の論理学は生き残り、体系も存続できる可能性がある。

 最後に、ヘーゲル の理想とした理性的な世界像を真っ向から否定する運動が、ヘーゲル 死後100年を経て、ドイツで起こった。

 ナチズムだ。

 ナチズムの特徴は、「理性的な思考や判断よりも暴力やテロルこそ人を動かす真に有力な手段だとする考えや、上からの指示に絶対服従する画一的な集団行動こそが真の団結のすがただとする美意識や、ユダヤ人に対する徹底的な憎悪の念」が人間の脳裏に大きな位置を占め、それが国家の多数派の心情にまでなった(p193−194)。

 ナチズムの出現を、ヘーゲル 哲学から説明することは難しい。

 当時のドイツが置かれていた経済状態、感情を煽るプロパガンダの力など、ヘーゲル 哲学が大きく見落とした部分無くして、この現象を説明することはできない。

 以上で、「新しいヘーゲル 」の全体を読み終えました。

結論

 ヘーゲル 哲学は、「論理学」、「自然学」、「精神学」の体系からなる。

 「自然学」は、自然科学に大きく抵触しており、現代に通用しない。

 「精神学」も、人間の情動や無意識の領域を捉えておらず、現代に通用しない。

 唯一、宗教・芸術・学問など、極めて高度な精神活動についての洞察は、未だ検証不能なため、生き残る可能性がある。

 そうなると、ヘーゲル 哲学に普遍的価値が残るとすれば、それは論理学にしかない。

 ヘーゲル の論理学が、現在の自然科学や、情動・思考など、人間の精神運動を説明することが可能であったならば、論理学・新自然学・新精神学として、ヘーゲル の体系は現在にも通用する可能性がある。

 したがって、ヘーゲル に関して今後は、「論理学」を集中して勉強していく必要がある。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 また、ヘーゲル を噛み砕いて解説してくださった長谷川宏様に深く感謝申し上げます。

 

 

 

 

 


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