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「人工知能」と「自然知能」と「天然知能」

 さて、ここまでプログラミングのアプローチとして、いくつかの手法についてお話してきました。そして、何度か触れたように、プログミングはいまや、人工知能をつくるうえで欠かせない重要なスキルとして、注目を集めています。
 人工知能とは、わたしたちの脳の知能に対する、人工的に作られたコンピュータ上の知能と言えます。ただ私は、知能と言っていいのかどうかは疑問だと思っています。人工知能について考えるうえで、早稲田大学の郡司ペギオ幸夫教授の本『天然知能』(2019, 講談社選書メチエ)や『生命微動だにせず』(2018, 青土社)などを読むと理解が深まると思います。また、『やってくる』(2020, 医学書院)は、郡司先生の奇妙な体験をもとに、不思議な感覚のイラスト付きで天然知能について語られている、とても読みやすい本です。
 郡司先生は、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性を「人工知能」と呼んでいます。たとえば、ある虫を害虫か益虫かを瞬時に判断して、排除するのか活用するのかを判断する、それが人工知能の役割です。これに対するのが「自然知能」であり、自然科学が規定する知能であると定義しています。つまり、世界を俯瞰して見て、理解するための知識の構築が自然知能というわけです。さらに、郡司先生は、第三の知能として、「天然知能」という新しい概念を生み出しました。これは、知覚したデータから「自分にとっての」知識を構築する人工知能でも、全体を俯瞰して「世界にとっての」知識世界を構築する自然知能でもなく、「評価軸が定まっておらず、場当たり的で、恣意的で、その都度知覚したり、知覚しなかったり」する知性だという。外部からやってくる知覚されないものを感じ、その存在を許容して受け入れる知性。この天然知能だけが、「創造性を楽しむ」ことができる、唯一の知能であると主張するのです。そして、天然知性を定義することで人間の存在や心に迫り、自由意志などの問題を(以前の著作に比べて)極めてわかりやすく示しています。
 私は郡司先生のことを学生時代からよく知っているのですが、郡司先生と話をしていると、何を言っているのかよく理解できないことが多いのです。ところが、文章だと言いたいことが伝わってきます。なぜか英語の論文だと、さらにわかりやすくなります。
 人工知能の定義はいろいろありますが、その論争に付き合うのは疲れてきたので、もはやなんでも人工知能でいいのかもしれません。ディープラーニングも機械学習のひとつで、人工知能でいいんじゃないでしょうか。マスメディアなどでは、もっと広い意味で人工知能という言葉を使っているように思えます。もうこの際、人工知能=IT=IoT=ソフトウェアでいいんじゃないかとさえ思います(やけくそ)。知能の定義に興味がある方はネットや本でいろいろ調べてください。チューリングテストや中国人の部屋などの思考実験が出てくると思います。哲学の分野では今なお議論が尽きません。
 学生の頃、「坂を転がり落ちる石は、運動方程式を解きながら落ちているか?」という冗談を言っていたことがありますが、最近、これに似たことを本気でやる研究が進んでいます。Physical Reservoir Computingという考え方で、現実世界の物理系ダイナミクスを情報処理(=計算機)として活用します。ちなみに、Reservoirには、液体を入れておく容器やため池の意味があります。これは、コンピュータで計算するのではなく、実際のモノに変化を与えるアクチュエータと、状態を計測するセンサーをつけて、計算したことにしてしまうのです。半導体チップで計算するだけが情報処理ではない、という大胆な発想です。
 たとえば、死んだ魚をある水の流れに入れると、あたかも泳いでいるかのような動きをする、という研究があります。魚の形そのものが、重要な情報処理を行なっている、とも言えるというのです。従来のロボットのような、静的な身体に対して複雑な制御を行う場合と同様な計算を、動的な身体に対して単純な制御で実現できます。ソフト(やわらかい)ロボティクス、ナノマテリアル分野、レーザーのダイナミクスなどで応用されています。
 日本では、東京大学の中島浩平先生が、タコの足に見立てた柔らかい物体の根元をモーターで動かして、タコの足全体の複雑な動きをセンサーで計測し、物理系ダイナミクスを計算資源として活用する研究を行なっています。

2. 転がる石


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