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第117回 安和の変・前夜

康保4(967)年9月、藤原氏(特に今回は兼家が中心?)によって、また騙し討ちの様に、有望な源高明の女婿である為平親王ではなく、弟の守平親王が東宮とされました。
10月、冷泉天皇(18歳)の即位式が、本来の大極殿ではなく、紫宸殿で行われました。不徳の事態に対応するためです。しかし当日の冷泉天皇は終始毅然としており、帝王の風格を見せていました。
「師輔公(天皇の外祖父)の霊が背後からしっかり抑えられていたのではないか」人々は噂しました。

12月13日、人事異動が行われ、左大臣実頼(68歳)が太政大臣に(関白はそのまま)、失意の高明(54歳)が右大臣から左大臣に、そして師輔の同母弟である野心家の師尹(48歳)が右大臣になりました。

そのまま1年が過ぎ、翌年の10月26日、権大納言伊尹(45歳:師輔の長男)の娘・女御懐子が皇子を産みました。(後の花山天皇)。その少し前に兼家の長女・超子が入内しています。

またその年の11月に藤原為時(24歳:紫式部の父)は播磨権少掾(ごんのしょうじょう)に任じられ、新婚の妻と共に任地に下って行きました。(在京していたという説もあり)

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