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第118回(最終回) 安和(あんな)の変と紫式部の誕生。

康保5(968)年8月に安和と改元されました。
その安和2年正月2日、太政大臣実頼(70歳)の邸に参議の源雅信(50歳:やがて道長の舅)、重信(48歳)の兄弟が新年の挨拶に来て、2年前に崩御された村上天皇を恋い慕って泣きました。政治の方は冷泉天皇(20歳)の精神不安定をいい事に、天皇の外伯父である伊尹などが好き勝手にやっていると実頼もこぼしていました。実頼は冷泉天皇にとって外戚ではなかったからです。
2月7日の人事で、天皇の外叔父である兼家(41歳)が参議を経ずに、次兄兼通(45歳)も抜かして、中納言に抜擢されました。ずっと冷泉天皇の蔵人をやってきたし、東宮守平親王(11歳)を擁立するのに力を発揮した見返りでした。その日、なぜか兼家の叔父である右大臣師尹(50歳)の家来と兼家の家来が乱闘を起こしています。原因は不明ですが、急速に台頭してくる甥に一発かましたという所でしょうか?

そして3月25日、源満仲からの密告で、橘繁延と源連が謀反を企てているという事で翌日逮捕となりました。更に源連の親族・左大臣源高明が関係しているとなり、逮捕命令が出ました。高明は出家して許しを乞いましたが子供たち大宰府へ流される事になりました。そして満仲のライバルであった藤原千晴(平将門平定で功を上げた秀郷の息子)も罪有りとして隠岐へ流されました。他も流罪となります。
現在ではこれは冤罪とされています。満仲を使って満仲もライバルを蹴落として武門の棟梁になりたく、また藤原氏としても邪魔なだけの源高明を放逐したのでした。
高明の夫人は師輔の五女・愛宮でした。(もともとは三女が妻だったが亡くなり愛宮が後妻に来ました)愛宮も嘆き出家します。しかし愛宮の産んだ明子姫は、後に道長の第二夫人となって高松殿と言われ、多くの子女を成しています。
『源氏物語』でも光源氏が須磨に退去したのは3月下旬とされ、この史実と合致しています。
4月1日には高明の豪奢な西宮邸は放火されてしまいました。恐らく盗賊が宝物を盗んだ後に火を点けたのでしょう。いつの世でも人の弱り目に乗じる輩はいます。

全てが落ち着いた8月13日、冷泉天皇は伊尹らの主導で在位2年3ヶ月にて譲位。守平親王が円融天皇となり、新東宮には伊尹の外孫の師貞親王(生後
10か月)がなります。まさに摂関家にとって(実頼は蚊帳の外でしたが)思い通りの展開でした。
しかし10月15日、高明の後を襲って左大臣となった師尹は声が出なくなる奇病で呆気なく亡くなりました。栄華を手にしたと思われた伊尹も3年後、飲水病(糖尿病?)で49歳で亡くなり、兼通・兼家の兄弟の熾烈な闘争となっていきます。

この年、紫式部が生まれています。(他に説あり)
紫式部は少女の頃から『伊勢物語』を愛読し、業平やこの安和の変で失脚した源高明をベースに『源氏物語』を完成させていくのでした。
※長らく愛読(?笑)有難うございました!次回からは「『原爆誕生と戦後』の秘話」に取り組みたいと思います。宜しくお願いします!

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