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第85回 頼朝、伊豆に流される。

清盛は自分のものとまった亡き敵将の妻・常盤の美貌に悩殺されました。常磐は身体を清盛に任せながら、涙を必死に堪えていました。しかしこれで3人の我が子の命は救われたという安堵と母の喜びの気持ちを感じていました。
頼朝の処分決定は長引き、ようやく3月になって、清盛の盟友となった源頼政が国司を務める伊豆・韮山の蛭(ひる)が小島という中州に流される事になりました。しかしこれは結果的に大失敗でした。頼みにしていた頼政はやがて反旗を翻して亡くなり、だいたい東国は遠く八幡太郎義家の頃より源氏の支配地でした。清盛の判断は甘かったと言えます。

池の禅尼は出立の朝、頼朝を部屋に呼んで言いました。
「お父上のご冥福を祈るのですよ」
「分かりました」
頼朝は命の恩人に涙して平伏しました。傍らで頼朝助命に尽力した宗清も安堵の余り泣いていました。

頼朝の同母弟・希義(まれよし)は平治の乱の時、駿河の伯父・藤原範忠の所にいましたが、やがて朝廷に差し出され、土佐に配流となりました。頼朝の伊豆が土佐であったら歴史はどうなっていたでしょうか?
遠江国で秘かに育てられていた希義の異母弟・六男範頼は、変わり者で有名で男気のある藤原範季(高倉流)の庇護を受けて時期が来るのを待ちました。
常磐の3人の子の内、上の2人はすぐに仏門に入り、一番下の牛若も必ず遅れて寺に入れるという事で決着しました。常磐の傍らにいた牛若は生後約1年の数え2歳。7歳頃(11歳説も)鞍馬寺に入れられましたが、それまで母と仲の良い清盛をどう思っていたでしょうか?清盛との間には妹も生まれました。

「世は平家。源氏はもう駄目じゃ」世間は壊滅的な源氏の勢力を揶揄しました。しかし源氏一族は秘かに捲土重来を考えていたのです。(続く)

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