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第64回 平治の乱の前兆

保元4(1159)年4月、平治に改元されました。
6月になって、母の喪が明けた頼朝は、二条天皇からお召しを受け、上西門院の蔵人に加えて、天皇の蔵人も務める事になりました。この頃、二条天皇は我を通す様になっていました。

更に二条天皇の身辺では、権力を振るっていた信西の悪口で持ちきりでした。
「主上の親政を邪魔する者よ」
「信頼と組もうか」「信頼もなあ」
「何、信西さえ亡き者にすれば、信頼になど用はない」
二条天皇の外戚の叔父経宗などを中心に、反信西の者は多く、集まってきました。
検非違使の別当である藤原惟方(これかた)というのが、信頼の母方の叔父なので橋渡し役になって、もともと反信西の信頼も一味に加わりました。そして当然信頼は武力として、信西に恨みを抱く源義朝も引き込みました。

その頃、讃岐にいる上皇(崇徳上皇)が書いた写経を、信西が突き返すという事件が話題になっていました。清盛は考えました。
「お気の毒な讃岐の院様、しかし信西殿も余りに冷たい」
冬11月末になって、清盛は一族を率いて熊野参詣に行く事になりました。
「この様な時に」
後室の時子は、年の瀬に近くなって行動する夫に言いました。
「この様な時だから行くのよ」
清盛は、自分の留守中に信頼らが何か起こすと確信していました。そして勝算もありました。
いつもは自信満々の信西が珍しく不安げに清盛に言いました。
「早く帰ってきてくれよ」
「分かりましてございます」
清盛はにっこりと笑って、12月4日に都を離れたのでした。(続く)

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