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第131回 言仁(ときひと)親王(安徳天皇)への不安

后の御産の時には、御殿の棟から甑(こしき)を転がす慣らわしがありました。皇子ご誕生の時は南側へ落とし、皇女誕生の時には北側へ落とす筈なのに、この時は皇子なのに北側へ落としてしまい、急いで取り上げて改めて南側へ落とし直しました。しかし人々は声には出さないけれど「不吉なこと」と顔を見合わせたのでした。

それでも言仁(ときひと)親王と名付けられたその皇子は、治承2(1178)年12月15日、生後僅かに一か月で皇太子に立てられました。
東宮大夫には清盛嫡男の重盛ではなく、三男の宗盛が任じられました。
言仁親王の生母・徳子が宗盛の同母妹なので当然と言えばそうなのですが、重盛は失意でした。前年の鹿ケ谷の変以来、傍流の様な扱いに転落していることを感じていたのです。

「私という存在はもういらないのだ。父上や宗盛にとっても邪魔なのだ」
しだいに重盛は体調を崩し、病床に臥す様になりました。
同じ頃、鎌倉では、夫婦となっていた源頼朝と北条政子の間に長女(大姫)が生まれていました。
平家方にもこの情報は伝わっていましたが、落ち目の源氏の結婚などと、たかをくくっていました。
かつて源氏に仕えていた武士も、生きるために今や平氏に仕える身となっていました。斎藤実盛や畠山重能(しげよし)がそうでした。(続く)

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