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第109回 バターン死の行進

1942年2月に、シカゴ大に原爆研究を目的とした冶金(やきん)研究所が設立されました。日独に圧勝するためには原爆を造る事だと認識したためでした。
3月、ミネソタ大でついにウラン235と238の分離に成功しました。爆発しやすいのは235の方です。後はそのウラン235を濃縮すれば原爆は完成する理論でした。全米あげての研究がなされました。
同じ3月、日本軍の追撃にマッカーサーはフィリピンからオーストラリアに逃げ出しました。
「アイシャル リターン。必ずや私は戻るだろう」と言って。

4月9日。日本軍はフィリピンのバターン半島で7万6千名余りの捕虜を捕まえました。しかしバターン半島では食糧が乏しいので、食糧がある別の収容所に移動する際、112キロも炎天下の中、捕虜を歩かせました。そして過労と食料・飲料不足で、2千名以上が途上で亡くなりました。

これは逃亡兵からアメリカで喧伝(けんでん)され、「バターン死の行進」として「パールハーバー」と並んで日本ージャップへの怨嗟(えんさ)となりました。(続く)

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