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第101回 兵衛佐(ひょうえのすけ)(1)

兵衛佐とは崇徳上皇の側室の1人です。源行宗(百人一首の行尊の兄)の養女として宮中に出仕しましたが、実父を辿ると、藤原・小野宮家(師輔の異母兄実頼)の子孫でした。母はどうも源頼朝の母と同じ熱田神宮家ゆかりの方の様です。(後に頼朝から荘園を寄進されているので)

父・鳥羽院から愛されず(我が子ではなく、白河法皇の胤と思っていました。これは事実)、皇后聖子(関白忠通娘)も養子の体仁親王(後の近衛天皇)の養育に一生懸命で、心の隙が生じた崇徳天皇を兵衛佐は支え、いつしか天皇も兵衛佐を愛し、皇子・重仁親王も生まれます。
重仁親王には当時、平忠盛と妻宗子(後の池禅尼)が乳母となり、騙し討ちの様に崇徳天皇は譲位させられましたが、重仁親王の帝位の希望も見えていました。
しかし近衛天皇が17歳で崩御すると、崇徳上皇の勢力が伸びるのを恐れた鳥羽法皇、特に美福門院得子(崇徳上皇の母璋子と対立していたので)の考えで重仁親王は外され、後白河天皇の即位となった訳です。

憤懣を抱えた崇徳上皇は保元の乱に加担、しかし敗れて讃岐に流される事になりました。その時でも傍に仕えるのを許されたのが兵衛佐だったのです。
讃岐での8年間も兵衛佐は上皇を支え続けました。一度、写経したものを都に送ると、ぼろぼろにされて送り返されてきました。上皇は自らの指を切り、血染めで呪いの文章を書きました。
二人の子、重仁親王が23歳の若さで亡くなってからの崇徳上皇はそれこそ怨霊の様に、髪も梳かず、爪も伸ばし、ただただ世の中を恨んでいました。
そしてとうとう三木近安という刺客に殺されてしまったのです。

上皇の遺体は八十場(やそば)の泉に浸されて、検死官がやってきて白峰に送られ、荼毘に付されました。兵衛佐は都に帰る事にし、許可はすぐに下りました。秘かにあの血染めの写経を持って船に乗ったのでした。(続く)

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